ブラックリストと「裏面憲法」のない社会を

2017年 春号(通巻175号)

朴槿恵大統領の顔色がいつにも増して明るくなったことがある。金淇春元秘書室長の任命式でピンク色のジャケットを着て彼を迎える大統領の顔色が明るくなった。互いの利用価値を本能的に気づいた二人の切ないが「間違った」出会いだったのである。それ以後、青瓦台(大統領官邸)が発動した数多くの違憲的・不法的措置の中でもブラックリストはこの二人にとって会心の作であろう。中央情報部対共捜査局と検察公安部で長年働いた金淇春は、独裁政権への批判者を「赤」として追及したり、スパイとして操作した「今までにない」選手であり、朴正熙の鉄拳統治を懐かしむ朴槿恵にとってこのような反人権的人物はむしろ心強く思われたであろう。

ブラックリストの存在は昨年10月国政監査において都鍾煥議員の発言でその一端が確認されたことがあるが、特別検察官が朴槿恵-崔順実国政壟断を捜査する過程においてその全貌が明らかになった。朴槿恵が首席秘書官会議で「国政指標が文化の隆盛であるのに、(朴槿恵政府に批判的な)左寄りの文化芸術界に問題が多い」と指摘すると、金淇春は「文化芸術界の左派の策動に闘争的に対応せよ」というような指針を下した。首席秘書官らはこのような指示を文化体育観光部に、文化体育観光部は下部機関に順次に下達し、指示事項を実行することによって、政府と見解の違う文化芸術家及び団体を政府の支援から排除した。

2015年初、朴大統領は当時金尚律教育文化首席に「(文化体育観光部が)『創作と批評』『文学トンネ』などの左派文芸誌のみに支援し、健全な文芸誌には支援をしない」と支援政策の修正を指示した。その後、優秀文芸誌支援事業は縮小、ついに廃止され、2つの出版社からの出版図書は「世宗図書」(優秀図書支援事業)目録からも多く脱落した。その他にも演劇演出家のパク・グニヨンとイ・ユンテクが創作産室演劇分野支援と文学創作基金支援から排除され、小説家の金愛爛と金衍洙の場合、北米韓国文学学会からの招聘がキャンセルされ、評論家のファン・ヒョンサンを含む文人の多くが芸術委員会審査委員から除外された。釜山国際映画祭はセウォル号惨事を取り扱ったドキュメンタリー映画「ダイビングベル」を上映したことで、利用館執行委員長が辞退の圧力を受け、予算も大幅削減された。ノーベル文学賞候補として言われている高銀詩人等がブラックリストに含まれており、大統領がブッカー賞インターナショナル部門受賞者であるハン・ガンへの祝電を拒否したことは聞くに堪えない。

朴槿恵政権のブラックリストは、過去独裁政権の検閲とは違って身体的危害を加えない反面、徹底に制度的不利益を与える。劣悪な条件で創作する文化芸術人に政府支援を打ち切り、外部支援を遮断する下品な検閲方式なのである。ブラックリストの名分を依然として従北・左派勢力に対する対応から探し求めているが、実際とはあまりにも大きな乖離があるということも目につく。言論に公開された9,473人のブラックリスト名簿はセウォル号の真相究明を要求したり、または選挙で文在仁と朴元淳を支持した人々と知られたが、彼ら全員を従北・左派と規定するのはおかしなことである。

特に印象的なのはブラックリストを主導した人たちが、それが大きな犯罪であることに自覚がないということである。金淇春は逮捕令状審査でブラックリストが犯罪であることを知らなかったと陳述し、朴槿恵もチョン・ギュゼとのインタビューでチョ・ユンソンの拘束に対して「別に、、、賄賂罪でもないのに、拘束までするとは、、、やりすぎだ」と話したことから、それが憲法的価値を蹂躙する重い犯罪であることを認識していないことを見せている。大統領就任宣誓の初句―「私は憲法を遵守し」―を誓約した当事者が表現の自由のような核心的な憲法条項は眼中にもないのである。もしかすると彼らがとくにブラックリストと関連してこのように図々しく―これは罪ではないというように―対応するのには憲法の他に頼れる何かがあるからかもしれない。

朴正熙(維新)時代と全斗煥時代に厳しい弾圧を経験した本誌としては、今回のブラックリスト事件から既視感が感じられるのも事実である。ところが、今回の事態は維新独裁を復活させようとする時代遅れの発想であるだけではなく、維新時代のはるかに前から綿々と続いてきた韓国社会の問題点を画然と露わにしている。大韓民国は民主主義憲法を持っているものの、分断国家の成立以来、とりわけ朝鮮戦争以後分断固着化によって韓国社会に深く根を下ろした反共反北の慣習的価値体系に絶えず苦しめられており、その陰からいまだに脱していない。憲法的拘束力を超過して作動しつつ、守旧既得権層の支配を強固にするのに寄与してきたこのような慣習的イデオロギーを、白楽晴は「裏面憲法」と命名したことがある。

朴槿恵と金淇春が大韓民国の憲法を正面から違反し、それに相応しい罪意識がなかったというのは、彼ら自らが裏面憲法を充実に守ったからかもしれない。未来メディアフォーラムが「ブラックリストは正当な統治行為」と強弁したり、太極旗集会への参加者が「赤は殺してもよい」と書かれた盾を持って来たり、李仁済元議員が「今のロウソク集会は憲法を破壊しようというもの」と非常に奇怪な主張をする時も裏面憲法の影響力は強力に発揮される。つまり、韓国社会においてブラックリストは裏面憲法の後押しによって作動するものなのである。

しかし、大統領の弾劾局面において広場に溢れ出る市民は、凄まじい裏面憲法の前でまったく委縮しなかった。「従北左翼(「ザパル」、日本でいう「ブサヨ」―訳者注)」という非難にもぶれることのない広場で最も人気を集めたスピーカーは、多分に慣習的に闘争を鼓吹する労働運動の指導部や政治家より、各自の厳しい生活から湧き出るそれぞれの言語で生々しい話を聞かせてくれた一般市民や個々の労働者であった。全種類のお決まりを拒否する市民の集団的知性とフェスティバルの雰囲気、そして平和デモ原則が輝く広場であったがゆえに、極端で硬直した顔の裏面憲法が入り込む余地はなかった。

市民は「大韓民国のすべての権力は国民から出る」という憲法第1条を叫びながら堂々と広場を行進したが、情報機関や検察の検閲と弾圧を経験した人たちにとって、その光景はロウソクの護衛の下で憲法を抱え込んで裏面憲法の闇のど真ん中を貫通していく感じであった。今はブラックリストをつくった現職大統領の弾劾審判の瞬間が近付いてくるにつれ、裏面憲法に頼ってきた守旧既得権勢力も総力闘争に出てくる状況である。ロウソク市民は国の主権者として緊張を緩めず、本当に「悪い大統領」を追い出し、裏面憲法の完全廃止にまで進んでいかないといけない。それがまさにブラックリストのない国をつくることなのである。

 

今号の特輯「ロウソク革命、転換の始まり」は、昨年の秋から今まで続いているロウソク集会の革命的性格を分析して、それが成し遂げたことと成し遂げることを点検し、私たちの前にどのような選択が置かれており、韓国社会の大きな転換がどこから始まれるかを論じる。

白楽晴は、今回のロウソク集会が既存のいかなる革命や構想とも違う新しい市民革命であるという事実に注目し、それを「ロウソク革命」と呼ぶことに躊躇しない。彼は、平和デモを集団知性の戦略的選択と把握し、世界史に類を見ない平和的革命と新世界づくりを希望する。分断状況の認識に基づき、朝鮮半島・東アジアの平和を図り、朴正熙モデルの克服と裏面憲法の廃止を通じて新世界を作ろうということである。なお、ロウソク革命を完遂するために今の政治界が肝に銘じるべき助言も欠かさない。ユ・チョルギュも朝鮮半島に限らない幅広い視野をもって、緊迫した米中利害関係の衝突や緊張局面において韓国が進むべき道を打診する。一対一交渉を推進しようとするトランプ以後のアメリカと、多者交渉における求心点の座を狙う中国とが衝突する時、むしろ韓国の立地が生まれると展望し、サード問題もこの角度から解いていくことを注文する。またこのような情勢の中で韓国の経済問題、とりわけ4次産業革命と低成長に対する対応策は「分配」にあることを力説する。

黄静雅はロウソク広場の「情動」を最近の文学作品を通じて論じ、民主主義はどのような「気持ち」であるかを問いただす。セウォル号以後韓国社会の話頭になった「じっとしている」ことの情緒をキム・グミ小説を通じて読み、それがどのように「じっとしていない」ことの情熱を発生させるかを分析する。人生の「神聖さ」と「くだらなさ」が交差する瞬間を穿鑿した黄貞殷小説を通じては、人生の「くだらなさ」が広場の光として進化する心の軌跡を追跡する。特輯の掉尾を飾るのは、1987年6月を経験しなかった若い世代のロウソク座談「私たちはロウソクを持ち上げた」である。江南駅事件以後のフェミニズムアクショングループと梨花女子大学学生会、ロウソク広場の退陣行動において活動してきた参加者らがロウソク集会を経験した各自の所感を率直に聞かせてくれる。ロウソク集会の原動力になった各界の青年たちがコミュニケーションを取り合いながら、新しい民主主義を思惟する姿が興味深い。

ロウソクの機運は「現場」欄にも続く。歴史学者の韓洪九は題目通りに「ロウソクと広場の韓国現代史」を闊達な文体と主体的市民の視線で追跡する。韓国現代史においてなぜ数多くの人々が広場に出て来ざるを得なかったのか、広場は私たちにとってどのような意味であったかを振り返る中で、今こそ韓国社会を立て直す時であり、それゆえロウソクを消すことができないという主張が切実に伝わる。

今号の創作の「詩」欄は、キム・グァンギュからユ・ジンモクまで10人の詩人が個性のある声で聴かせてくれる多彩な詩で飾った。今年の「小説」欄の長編連載は最近韓国文学において最も注目されている作家の一人であるキム・グミが担当する。ミシン会社で働く「天下り」のチーム長代理と不愛想な女職員間の話がどのように展開されるかお楽しみいただきたい。すでに各自しっかりした作品世界を構築しているカン・ヨンスク、キム・リョリョン、金愛蘭の短編はそれぞれのやり方で新しい小説叙事を試みる。

「文学フォーカス」は、今号から新たに進行を担うソン・テッス詩人とチョン・ジュア評論家がキム・オン詩人を招いて近作詩集と小説5冊について興味深い討論を行う。注目される新作をめぐって参加者各々が固有の観点と個性的な語法で聞かせる生々しい批評的な話である。「作家スポットライト」では、小説集『光の護衛』を出版したチョ・へジン小説家をシン・ミナ詩人が訪ねて「闇箱に開いた針穴から広がる光のパノラマ」のような彼の作品世界を検討する。「文学評論」では、パク・サンス詩人が2000年代の「詩的主体の倫理的冒険」と2010年代の「日常再建の倫理的責任感」とを比較し、最近の詩と詩批評の風景を素早く検討しながら明確な自己観点を力強く叙述する。

「論壇」の3本の論文は、当該分野の重要な争点を深く取り扱う。アメリカの政治哲学者であるナンシー・フレイザー(Nancy Fraser)は資本主義と社会的再生産間の構造を「資本とケアの矛盾」という問題枠で分析したが、新自由主義的金融資本主義が自由主義フェミニズムの一部を包摂する状況においてフェミニズム運動の行路に悩む示唆に富んだ論文である。アン・ビョンオクは気候変化と関連してイ・ピルリョルの「気候変化、人工知能そして資本主義」(本誌201年秋号)に対する反論として技術楽観論的立場を分析・批判する。地球の平均気温の上昇幅を摂氏2℃以下にするというパリ協約の目標、さらに1.5℃にまで下げて設定する目標が気候科学の面においてはもちろん、人類の未来においても緊要な政治的選択であることを強調する。ク・ガブはウィリアム・ぺリー(William J. Perry)元アメリカ国防長官、ソン・ミンスン元外交通商部長官等の近作回顧録4本を丁寧に検討する。朝鮮半島及び東アジアの国際情勢に深く介入した彼らの陳述を交差検証する作業を通じて、北朝鮮の核問題と南北関係を解決していく手がかりを探る一方、「文学」としての回顧録の意義を発見する。

「散文」を準備する気持ちは重かった。繊細で品のある作品で韓国小説文学において重要な位置を築き上げてきた故チョン・ミギョン作家を追悼しながら、後輩作家のチョン・ジア、チョン・イヒョンが故人の人生と文学を振り返る論文を載せた。矛盾と葛藤の世界を断固たる視線で最後まで眺めた優秀な作家を早く亡くした悲しみがそのまま伝わる。二人の作家に感謝し、故人のご冥福をお祈りする。

昨年各界の専門家の招聘インタビューを行って話題を呼んだ「読者の声」は、今年「読者レビュー」に衣替えする。創批に対して関心と愛情をもつムン・ビョンフン、イ・ジュへ読者が前号を細心に読んだ所感を寄せてくれた。今年の「寸評」は、ハ・デチョン(科学)、ヤン・ヒョシル(女性)の二人を固定筆者として迎えた。二人を含めて、短いが手間のかかる充実した論文を書いてくださった7人の方にお礼を申し上げる。

最後に、今年で51回を迎えた大山大学文学賞の発表と受賞作を載せる。大きな激励とお祝いのお言葉を贈る。今後韓国文学を率いていく有望株のデビュー作に注目していただきたい。

2017年を迎えて本誌にいくつかの変化があった。編集委員会からチン・ウニョンが退き、チョン・ヒョンゴンが常任委員となる。そして2011年に制定した創批人文評論賞(旧社会人文学評論賞)公募が2016年をもって終了した。これまで関心を寄せてくださった読者の皆様に感謝申し上げ、今後多様な方法で韓国社会に対する斬新で実践的な人文学的探求と批評的作文を声援する方法を模索することを約束する。

今冬ロウソク市民はすでに多くのことを成し遂げた。守旧既得権勢力の激しい抵抗にもかかわらず、大きな異変がない限り大統領の弾劾は採択されるであろう。ところが、それに満足してはいけない。『創作と批評』はロウソク市民読者の皆様とともに、新しい社会づくりに取り組み、ロウソク革命の完遂のための創造的思惟と熾烈な論議の場になるよう最善を尽くしたい。

韓基煜

 

訳:李正連(イ・ジョンヨン)

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我々皆の喊声が指し示すところ

2016年 冬号(通卷174号)

セウォル号惨事の真相究明を求める月例304朗読会が2年以上続いている。光化門広場をはじめとする数多くの場所を渡りながら、毎回参加者が異なり、内容も変わったものの、最後のプログラムだけは変わらない。朗読者と聴衆が司会のリードにしたがって同じ声をあげる「一緒に読み上げる文章」コーナーがそれである。「今日は4月16日です」と始め、「終わるまで終わらせません」と終わるこの短い文章には徹底した真相究明を要求するメッセージとともに「皆の名で命令します」という文章が入っている。しかし、過去約2年間、私は一度もこの文章を最後まで読み上げることができなかった。この文章にいたる瞬間のその崩れ落ちそうな感情を押さえることができなかったからである。

喪失感と日常の厳重さをそれぞれ見守りながら、長い時間を耐えきり、立ち向かってきた私たちは、再び「皆の名」で新たな「命令」を下さないといけない事態に直面した。それは、他でもなく、「朴槿恵―崔順実ゲート」と呼ばれる初の国政壟断事態なのである。そしてついに街へ溢れ出してきた巨大なキャンドルの波の中でふっと気づいたことがある。それは、国政院の選挙介入捜査とセウォル号惨事の真相究明の要求を組織的に防ぎ、歴史教科書の国定化や開城工業団地の閉鎖、サード配置まで頑として強行できたのは、「命令」する民衆の喊声が小さかったからではなく、その「命令」が行き届くべき最終の受信先が最初から空っぽだったからであるという事実なのである。「まさか」という最終の阻止線が無惨に踏みにじられるまで、それを幇助し、しいては助長までしたセヌリ党と守旧言論がその裏切り者だったことはもちろんであるが、危機がある度にその喊声の正確な伝達者になるべき野党側はそれまでどこで何をしていたのだろうか。

統計的意味がほとんどない1桁の支持率が見せてくれるように、そして広場に集まった百万個のキャンドルが声を合わせて叫んでいるように、国民の心の中で大統領は弾劾されたのである。あとはすでに決定された「国民的弾劾」の政治的・法理的手続きが残っているだけである。したがって、このような過程を一糸乱れず整然ととりまとめることが、政治圏に至急の責務として与えられたわけである。しかし、彼らの動きは失望極まりない。内治と外治を分離する責任総理論を掲げて国政主導権を維持しようとする大統領府(青瓦台)と与党側の主張は理屈に合わない。トランプの米大統領当選によって国際情勢の不確実性がいっそう高まってしまった状況下で、いったい誰に外治を任せるというのか。しかも、このようになれば、内閣に含まれてもない国政院と監査院等の有力情報・査定機関は現職大統領のもとにそのまま残るようになる。大統領の2線への後退という曖昧な前提の裏であっちこっち様子を窺いながら、国民がつくってあげた絶好のチャンスに無賃乗車しようとする「共に民主党」式政治工学も同様である。政治的逆風、国政の空白、国政混乱を防がないといけないという名分であるが、国民はいつもより秩序整然とし、一貫性のある姿を見せている。むしろ右往左往と混乱に陥っているのは、政権奪還を当然のことのようにとらえ、政治的利害得失の計算に慌ただしい第1野党かもしれない。

国民の命令はすでに下された。早期大統領選挙を含めて現行憲法の手続きに従って問題を解決し、国民の意思を尊重する政権を誕生させなければならない。一角の改憲主張もその次の番にならざるを得ない。大統領直接選挙制の実現という国民的合意をもとに行われた87年改憲と、如何なる合意も準備されてない現在の改憲論が置かれている状況とは根本的に違うからである。大統領4年再任制か内閣制か、それともその折衷型なのかに埋没された権力構造の改編案が改憲内容の全部にもなりえない。どうすれば、「民の自治」という理想を高いレベルに熟成させることができるのかをめぐって、よりいっそう大きなレベルの転換のための青写真が討論されなければならない。改憲も手段の一つであるだけで、それ自体が目的にはなれないからである。たとえ政権が交代されるとしても、そのような過程がスムーズに推進されるという保障もない。それだけで国政壟断事態を招いた守旧勢力が完全に消滅されるわけではなく、分断体制が存続する限り、民主的ガバナンス体制を逆に巻き戻そうとする彼らのロールバック(roll back)の試みが簡単に終息されるはずがないからである。依然として彼らの手に握られている社会的・政治的資源があまりにも多いのではないだろうか。

単純な政権交代や改憲論議を超え、韓国社会を根本的に変えなければならないという声が社会各所から噴出している理由である。ソウル市の江南駅10番出口で起った女性嫌悪殺害事件以後、飛躍的に広がり始めたジェンダー的覚醒の波だけを見ても、単なる弱者保護や差別撤廃、男女平等論のレベルを超える方向へと進化している。SNSを中心に起きた「○○内性暴力」ハッシュタグ運動もその兆候の一つであろう。蔓延している構造的暴力の中で傷ついた存在が自ら立ち上がって、社会に向けて声を上げ始めたのは、キャンドルの喊声と同じくらい意味のあることである。この流れを巻き戻そうとするいかなる試みもいまや古い反動にすぎない。

このような時に、あらゆる種類の拘束と抑圧に立ち向かって戦うべき文人たちがむしろ位階による性暴力の加害者として名指されたという事実に惨憺たる気持ちを隠せない。この問題が、有志の文人、読者または団体等のいくつかの措置や制度改善の努力だけで完全に解消され得るレベルではないという点も多くの人々が共感する点である。まずは、すでに始まった変化に寄与しながら、ともに進化していく方向を熟考することが切実である。その第一のカギが「傾聴」であることは言うまでもない。去る11月11日、高陽芸術高校文芸創作科の卒業生連帯「脱線」の声明発表会は、その意味で文学と文学者がいるべきところがどこなのかを改めて振り返られる貴重な契機であった。「私たちは文学であると同時に、同時代の証人として私たち自身を証明する」という彼らの厳粛とした宣言を前にして、文学界は必ず答えなければならない。

創刊50周年の冬号の巻頭言を新たな覚悟の代わりに国政壟断事態と文壇内性暴力に対する論評で書かざるを得ない現実ではあるものの、残念なことばかりではない。街や広場に雲集したキャンドルの波から、傷を乗り越えて位階を覆しながら、連帯の威厳を見せてくれた女性たちの声からより大きな希望が見出せるからである。そういえば、あらゆる根本的な変化はいつも下から始まる。性急な楽観や無策の挫折が空しいものにならざるを得ない理由は、それが概ね「下から」に基づかず、「上から」の意識にとらわれているからであろう。

その延長線でパニックという言葉がちまたで言われるほど予想外の結果を生んだアメリカ大統領選は他山の石とされる。選挙期間中大勢論を占めたヒラリー・クリントンは、なぜ資質不足論難の絶えなかったトランプに敗北したのだろうか。トランプが代弁する女性嫌悪や白人中心主義の勢力強化でこれを説明することもできるが、核心を外れた診断になりかねない。今回の選挙はトランプの勝利というより、腐敗既得権層の典型のヒラリーの敗北である。大勢論に酔い、あらゆる不平等に苦しむ「下からの」声を代弁できなかったことが決定的敗因であろう。トランプの統治過程は順調でないだろうと予想されるが、このような混乱を生んだ責任からアメリカ民主党と候補のヒラリーはどれくらい離れているのだろうか。「朴槿恵以後」を準備する野党側の走者たちが痛烈に考えなければならない点である。保障された未来はあり得ない。これから何をするかが毎瞬間の意味を決定付けるであろう。

 

今号の特輯は、去る夏に引き続き、現実の重さに素直に耐えながらも未来に向けた投企(Entwurf)を止まない詩人・作家の作品を「リアリティ探求の文学的形式」というテーマで集中検討する。何がより「リアル」なのかを問うて答える文学的苦闘の中で自然と浮かび上がったそれぞれの文学的形式は、その多様さと深さで慣行化された悲観主義を色褪せさせる。

ソン・ゾンウォンはファン・インチャンの最近の詩集を繊細に検討し、各々が構築した詩的リアリティの性格を論じる。ファン・インチャン詩の分裂する感覚の豊かな詩的潜在性にもかかわらず、異質性の統合努力が欠如されたことと対照的に、キム・ジョンファンの詩が時空間的地平の拡張を通じて歴史との接続を試みる点を注目する。チョン・ジュアは若い世代の二人の小説家を扱いながら、彼ら各自が感知するリアリティをどのような形式をもって探求し、具現するかについて綿密に考察する。動物的生活を探求するキム・オムジと共同体的価値に注目するチェ・ウニョンの小説それぞれの特性を思惟しながら、それなりの「総体性の形式」を提示する部分も注目に値する。

ユ・ヒソクは、キム・スムとイ・インフィの最近の小説を87年体制に対する文学的哀悼として解釈する。キム・スムの近作から時代の悲劇を復元しようとする小説的試みの成果と限界を鋭く指摘し、「詩人、カン・イサン」をはじめとするイ・インフィの小説を丁寧に分析・評価するが、争点に近い鋭さが別格の関心を引く。崔元植は、ハン・ガンの小説世界の変化を「小市民性」に対する本能的抵抗から少数者の匿名性に基づいた非総体性の特異な成就へと進んだ過程として把握する一方、クォン・ヨソンの近作を資本の包摂が強化される時代の黙示録的風景を卓越と描いた事例として評価する。作品の内側へ入り込む分析の綿密さが興味深い。

「文学評論」には『菜食主義者』の翻訳者として知られるデボラ・スミスの論文を紹介する。翻訳する過程で起こったテキストとの内密な対話体験を珍しい実感として伝える中で作品の真面目に到達した独特の平文である。最近逝去した小説家のイ・ホチョルの作品世界を概観したイム・ギュチャンの論文も注目していただきたい。一つのバランスの取れた作家論であると同時に、故人に献呈する美しい追悼の辞としても遜色ない。

「創作」欄はいつもより豊富である。新作詩選特集の最終回には詩壇の未来を握る25名の若い詩人が参加した。輝かしい個性で武装した作品を通じて、韓国詩の未来を展望する特別な楽しみを味わえる。中編小説企画の大尾は黄貞殷とパク・ミンギュが飾り、クミと李章旭の新作短編に出会えるのも嬉しい。

「文学フォーカス」は、チャン・イジ詩人をパネリストとして招待して活発な討論を行う。殷熙耕、チョン・イヒョン、ぺク・スリンの小説と、ホ・スギョン、パク・ギヨン、アン・ミリンの詩集のもつ深さと広さが3人の複眼を通じて完全に明らかになる。1年間この紙面を率いてくださった白智延、金素延のお二方に感謝申し上げる。「作家スポットライト」は最近小説集『灰色文献』を出版した中堅作家のカン・ヨンスクが主人公である。隠喩とアレゴリーに精通しており、なおかつ時代的真実に独特に根を下ろしたカン・ヨンスクの作品世界を文学評論家のパク・インソンが細心に分析する。

「対話」は連続企画「韓国の『保守勢力』を診断する」の最終回として財閥問題を取り扱う。財閥中心の経済構造がどのように韓国の政治地形の中で保守化傾向を生み出したのか、ソン・ウォングン、シン・ハクリム、イ・ウォンゼ、イ・イリョン等の専門家が討論する。最近政局を強打した国政壟断事態とも深く関係するテーマであるため、財閥の現在とその作動メカニズムを点検し、新たなシステムを模索する。

「論壇」には2本の注目できる論文が掲載される。イ・スンファンは、アメリカのアジア回帰、北朝鮮の統一大戦論、韓国のサード配置がともに戦争脅威を高める政策であることを説得力をもって主張しながら、壊れてしまった平和交渉テーブルを復元する道を提示する。スヴェン・ルティケン(Sven Lutticken)の論文は「所有権」という範疇と芸術作品の間の相関関係について歴史的解明を試みた重要な論文である。剽窃論議の進展に有益な参照点を提供するであろう。「現場」では連続企画「少数者の目で韓国社会をみる」の最終回としてイ・ヒャンギュの論文を掲載する。いわゆる「脱北者」と呼ばわる北朝鮮移住民の少数者的生活をその実状に即して強烈な響きを伝える。柯思仁の論文は、「中国崛起」という巨大な挑戦の前にして「文化主体性」の危機を迎えたシンガポールが東アジア論議の主要なカギの一つであることを浮き彫りにしている。

「散文」としては、釜山に住む小説家のキム・ゴムチの生々しい地震体験談と、『ドン・キホーテ』の作家・セルバンテスの400周忌を祝うアリエル・ドルフマンの論文を載せた。今季にも注目できる新刊を紹介する「寸評」欄は多くの討論題材を提供する。各分野の専門家の識見が遺憾なく発揮され、去る1年間固定筆者として活躍してくださったチン・テウォンとチョン・チヒョンお二方のご苦労にも心よりお礼申し上げる。

第31回萬海文学賞は既存の労働小説の硬直性から脱し、独特の文学的成就を成したイ・インフィノ小説集『廃墟を見る』に与えられた。なお、新しく施行される萬海文学賞特別賞部門は416セウォル号惨事作家記録談の『また春が来るでしょう』とキム・ヒョンスの『少太山評伝』が共同受賞された。第18回白石文学賞は中堅詩人のチャン・チョルムンの詩集『比喩の外』に与えられた。受賞者の方々にお祝いの拍手をお贈りする。

もはや冬である。この冬がどれくらい過酷なものになるか誰も断言できない。セウォル号惨事で大事な家族を亡くした人々は依然として街に残って3回目の冬を迎える準備をしている。真実は明らかにされておらず、誰も責任を取らなかった。昨年11月の民衆総決起現場で警察が撃った水鉄砲に撃たれて倒れた後、病床で残念ながら亡くなった故白南基氏の葬儀は遺族と市民が見守る中、死亡41日後にやっと厳かに執り行われた。我々皆の喊声があの世の故人にも聞こえただろうか。『創作と批評』ももう一度奮発を誓う。

姜敬錫

(翻訳: 李正連)

「どうせ」訪れる変化はない

2016年 秋号(通卷173号)

人はもちろん四方万物は無事なのか、また地球は安全なのか、そのすべてが心配になるほど長くて蒸し暑い夏だった。ところが、今夏を熱くしたのは記録的な蒸し暑さだけではなかった。電撃的に発表されたサード(THAAD)の朝鮮半島配置決定をはじめ、生涯教育単科大学の新設をめぐる梨花女子大学事態に至るまで、最近起こった様々な事件は卓上での暑さ云々が恥ずかしいくらい厳重なものであり、反対闘争の熱気は依然として熱い。

サードが配置された際、朝鮮半島と東北アジアの平和に加わる脅威や有・無形の損失に比べて、韓国の得る安保的・外交的利得は極めて不透明だという憂慮が高い中でも、政府は慶尚北道星州郡を配置地域として電撃発表した。初めて候補地となった地域の代わりに、星州郡に決まった理由としてはいろいろあったと思われるが、一旦抗議のため訪問して来た地域住民の前で、国防部次官が星州と尚州を混同する騒ぎが起こったほど、「中央」から見た時、星州がそれほど大した地域ではなかったという理由が大きく働いたと考えられる。それだけではなく、星州が伝統的に与党支持率の強い地域でなかったら、事前協議も一切せず、今回のような方法で発表することはできなかったであろう。一言でいえば、星州を「くみしやすく」思っていたといえよう。しかし、地域内配置を反対することから始まった星州郡民の闘争は、朝鮮半島の平和のためにサード配置それ自体を原点から再検討してほしいという主張に拡大発展しており、地域を孤立させようとする政府の戦術を嘲笑うかのように平和集会を通じて「外部勢力」との連帯を拡張している。

サード配置に対して否定的な世論が沸き立つ中でも、星州の闘争をめぐっての内心は思ったより複雑に見える。闘争そのものに対する冷笑的反応もあるが、それは、サード配置はもはや元に戻せない事案であるという悲観論に基づいているものである。さらに、このすべての事態はこれまで保守政党を熱烈に支持してきた当該地域の自業自得だと皮肉る声も後を絶たない。野党は否定的な世論に便宜的に頼っているだけで、サード配置を実際阻止しようとする意志は明確には見えない。サード配置が深刻な問題と言いながらも、すでに既定事実として受け入れる態度からも、そして現在行われている闘争の潜在性を信じ、連帯して協力するより、その限界の論評に没頭する態度からも共通的に見られるのは「どうせ」の情緒である。野党は、自分たちが時代の核心的な問題を背けるとしても、結局選挙で自分たちを支持する人々は「どうせ」支持してくれるだろうと思っている。与党もいくら疎かにしても自分たちの核心支持層は「どうせ」離脱しないだろうと信じる傲慢な態度を見せてきた。最近の韓国政治を支配してきたと言っても過言ではないこの「どうせ」の計算法は、前回の総選挙を通じて一定の審判を受けたにもかかわらず、依然として衰えることはない。

このような態度は政治圏にだけ蔓延しているわけではない。これまで教育部が財政支援を武器にしながら押し進めてきた大学改革事業を最初に中断させた梨花女子大生の闘争をめぐっても一般市民の間で似たような動きが感知された。闘争を支持するといいながらも、「どうせ」特殊な事例だから、いくら頑張っても教育部の政策を変えさせることはできないと予断したり、さらには学閥既得権守りと見なしたり、デモに参加した女性たちに非難や嘲弄、セクハラを加えたりもした。「どうせ」大学教育全般の公共性の拡大にまでつながるには限界があるというとらえ方であった。

現実の闘争を認め、抵抗の声に慎重に耳を傾けて連帯を模索するよりは、彼らが「どうせ」持たざるを得ない限界を先に指摘し、論評しようとする態度は、当該闘争が既存の見慣れた運動文法に符合しない際、より際立ったりする。星州のサード配置反対闘争や梨花女子大生の闘争に直ちに連帯することを躊躇する反応が続出したのも、やはり彼らの闘争がこれまで与党を支持し続けてきた地域や、相対的特権層に見える「名門」女子大学のように通念を背反する現場から起こった理由が大きい。ところが、星州の闘争こそが、サード配置が取りかえすことのできないことであるという「どうせ」の論法に真っ向から対抗した闘争であり、梨花女子大学の闘争も、最近の大学が教育部による上からの政治に対しては「どうせ」の態度で順応しつつも、学内では専横を繰り返してきたことにブレーキをかけた事件であることは確かである。

「メガリア(MEGALIA)」に代表される新たな流れの女性主義運動に対する最近の論難も「どうせ」の情緒を克服することができなくて生じた現象といえる。昨年フェミニストが嫌いだと韓国を離れてイスラム国家(IS)に加担した金君事件や、「ISより無脳児的フェミニズムがもっと危険です」と語るコラムを契機に、女性主義活動が急速に広がった。インターネットコミュニティ「メガリア」もこのような流れの中で女性嫌悪に対する闘争を名分として掲げてつくられた。特に、今年の5月、江南駅で起こった女性殺害事件以後、女性たちが日常的に感じる脅威に対する証言が相次ぎ、韓国社会に蔓延している女性嫌悪に注目する必要性を喚起させた。女性嫌悪に立ち向かうために男性の女性に対する卑下的な言語をそのまま真似して遣り返すというメガリアの戦略は、社会的に大きな論難を呼び起こした。もちろん受けた通りに遣り返すという運動方式が問題視される可能性はいくらでもある。ところが、メガリアも、これまで韓国社会で女性たちが相当の部分を諦め、忍耐してきた女性嫌悪的な情動に抵抗しながら、「どうせ」情緒に亀裂をつくった重要な運動であることは明らかである。それにもかかわらず、この運動方式の限界に対する批判に必死になっている勢力は、むしろ女性嫌悪的な行動に対しては「どうせ」存在する社会現象として見なしてしまう場合が多かった。

今号の特輯でデヴィッド・ハーヴェイ(David Harvey)も指摘しているように、今は多様な場所で多様な主体によって予想外の闘争スタイルが発生する時代である。したがって通常的観念から抜け出した運動の持つ潜在性を判断し、拡張することは、体制の根本的な転換を行うことにおいて決定的である。ところが、多様な闘争はそれぞれの内部で使用する言語や文化的慣習が相違であり得るし、現場が違えば相互の背景や歴史について理解することも難しく、わかるとしても完全に同意しがたい場合は度々あり得る。男性と女性の間にも視点の差があるとはいえ、既存の体制から排除されてきた多様な少数者たちの運動が、体制を与えられたものとしてとらえる人々に自ずと理解されるはずがない。それゆえ、漸次社会運動において重要な流れを形成している少数者運動ときちんと連帯するためにも、見慣れた「どうせ」の誘惑を乗り越えようとする積極的な努力が必要であることを忘れてはならない。

結局「どうせ」の情緒では連帯を実現することはできず、連帯の可能性を見つけられない限り、新しい社会に対する希望も生まれるはずがない。したがって、新しい変化をつくり出し、希望を見つけようとする努力は運動においてであれ、生活においてであれ、まさにこの「どうぜ」の情緒を克服するところから出発しなければならない。現在の闘争はいつも物足りないのが当たり前であり、さらに過去取り扱われなかった問題を新たに提起する勢力は荒くて尖っている部分が多いかもしれない。しかし、その結果が決まっている闘争もなく、すべての結果が決まっている人生もない。したがって、新たな連帯の可能性を信じ、「どうせ」に慣れている自身を振り返り、新たにする刻苦の努力こそが大転換の礎になる積功の重要な方法の一つと信じる。

 

今号の「特輯」では「危機の資本主義、転換の契機」をテーマとした。現代資本主義体制において起きている変化や危機的様相に注目しながら、それによって私たちの日常がどのように変貌しているかをまず検討した上で、緻密な現実診断に基づいて新しい生活の可能性と社会運動のあり方を模索しようとする努力の一環として見ていただきたい。特輯の最初の論文は、今年6月『創作と批評』創刊50周年記念行事の一環で来韓したデヴィッド・ハーヴェイと本誌の名誉編集人である白楽晴の特別対談である。世界と中国の未来の行方に対する議論から資本主義の歴史やマルクス主義に関連する理論的争点、そして最近「都市に対する権利」闘争にいたるまで、読者が興味を持ちそうな多様なテーマが盛り込まれている。続くデヴィッド・ハーヴェイの講演文は、資本主義がこれまで過剰蓄積の危機を解決してきた「空間的解決」方式が世界を統制不能状態に追い込んでいるので、私たちは果てのない成長の幻想から脱皮して資本主義体制で行われる「蓄積のための蓄積」を統制する手段を探さなければならないと強調する。とくに、この時代における富は、価値が実現される過程で創り出されるという事実に注目しながら、投資者のための都市ではなく、そこに住んでいる人々のための都市をつくらなければならないという主張は、今後私たち社会運動の議題を新たに設定していく過程にも重要な視点を与えてくれると期待する。

金鍾曄は、世界体制内で世界中位都市に該当するソウルの地位が所得・資源のソウル及び首都圏集中現象を強化することによって、韓国社会における様々な病理現象を強めていると指摘する。彼は、このような問題点を解決する手がかりを参与政府時代に試みられた首都移転プロジェクトと国立大学統合案とを結合するところにおいて探る。世宗市を中心に国立大学統合ネットワークを構成していくことによって、資本主義的蓄積に対して「空間的解決」ではない「教育的・社会的解決」を模索しようということなのである。彼の大胆な提案が活発な議論へとつながってほしい。

ソ・ヨンピョは、資本が支配する都市ではなく、人間らしさを基準とする都市をつくるためには、構造的矛盾を法則をもって説明し、規範的に与えられた目標を提示する運動では足りず、急速な都市化がねじれてしまった「身体の感覚」を回復することによって資本主義的時空間の暴力性に目覚めなければならないと強調する。

イ・ピルリョルは、去る12月パリで行われた気候変化協約が速く変化している人類社会の現実を勘案しないまま、到達不可能な目標を設定したと批判する。太陽エネルギー・デジタル時代の注目を要する技術の発達、人口変化、資本主義の変化を指摘しながら、気候変化についての議論を根本的に再検討する必要性を提起する彼の挑戦的な主張が熱い論議を触発するだろうと期待する。

「文学評論」では評論家のファン・ヒョンサンが故朴永根詩人の10周忌を迎えて出版した『朴永根全集』を丁寧に検討しながら、「労働者詩人」朴永根の辛酸な人生と切実な詩編の響きを今日蘇らせる。新鋭評論家のキム・ヨソプは、セウォル号事件以後、韓国社会において「競合する言葉」に注目しながら、イ・ギホと黄貞殷の小説を誠実に分析するが、その方式や様相は違うものの、両者とも「セウォル号以後」の共同体に向けてずっと発火してきたことを見せる。

「創作」欄を読む楽しみを欠かすことができない。まず、「詩」欄には夏号に続き、韓国詩壇を代表する中堅詩人の新作詩を掲載した。チョン・デホからコ・ヨンミンまで詩人25人の視線が留まるところがそれぞれ美しく輝く。創批新人詩人賞を受賞したハン・ヨンヒの新鮮な詩編がその後を繋ぐ。「小説」欄には独特な美学と語法を披露するキム・オムジの中編と、相異なる個性と作品世界を味わわせるチョン・ファジンとキ・ジュンヨンの作品、そしてただならぬ器量で創批新人小説賞に当選されたイ・ジュへの短編を収録した。

「文学フォーカス」では、白智延と金素延がパク・ジュン詩人とともに、最近話題となった詩集と小説集を幅広く検討した。文学の言語と語法に敏感な3評者が互いに共有する地点はもちろん、異なる地点を追っていく楽しみが特別である。「作家スポットライト」では、シム・ジンギョン評論家が『軍艦図』の作家・韓水山に会って「軍艦図」にまつわる哀切な話と作品構想から改作にいたるまでの険難な過程の話に耳を傾ける一方、作品の意味深長な部分を取り出す。

「対話」は、本誌の連続企画「韓国の『保守勢力』を診断する」の3回目のテーマをもって保守的社会団体の歴史的背景と現状、未来に対する展望を扱う。オボイ(父母)連合をはじめとする保守的な半官半民団体の取り組み及び各界との癒着関係は、韓国の民主主義が持続的に退行していることを露にした主な事例である。「対話」に参加した専門家4人は従北攻勢をはじめとしたこれらの団体の活動を歴史的に検討しながら、韓国の保守運動に未来はあるかを問う。

「論壇」に掲載された徐進鈺と押川淳の論文は、創批50周年記念行事の一環として開かれた「東アジア批判的雑誌会議」の発表文をもとにした。徐進鈺は会議で中国の「一帯一路」政策がアメリカの覇権的対外政策を代替する「包容的グローバル化」パラダイムであると同時に、南南協力の新しい模範と主張することによって、共感と批判を同時に受けた。彼の論文は朝鮮半島の平和と大転換にも重要な意味を持つ一帯一路政策の性格を論じることにおいてよい出発点になると思われるが、特輯に紹介されるデヴィッド・ハーヴェイの対照的な見解と比較して読めば、より有益であろう。押川淳は大地震以後日本で保育問題のような日常的イッシュで触発された憤怒がそのまま国家全般の腐敗と民主主義の毀損に対する抵抗へとつながるようになったと明らかにする。平和憲法を守る力も結局は生活の中で起る腐敗に対する抵抗から生まれるという主張が目を引く。

「現場」欄の連続企画「少数者の目から韓国社会をみる」は、セクシャルマイノリティ問題をもってつないでいく。ナ・ヨンジョンは、セクシャルマイノリティの市民権論議の意味が単にセクシャルマイノリティも市民であるという包摂戦略に限定されるのを拒み、性的抑圧に対抗することが社会正義を駆り立てる過程であることを強調するためには、「クィアな市民権」という転覆的概念が必要だと力説する。少数者市民権論議の地平を拡張するこの論文は、セクシャルマイノリティ問題が実に韓国社会の多様な側面に接続していることを気づかせる。

夏号に続き、「創批に要望する」インタビューでは、本誌の古い読者であるチョ・ヒヨンソウル市教育監とリュ・ハンスンソウル市労働権益センターチーム長に本誌の編集委員のキム・テウとハン・ヨンインがそれぞれ会った。厳しい批判とともに、創批が今後果たすべき役割について温かくて詳細な助言を寄せてくださったことに感謝し、それをさらなる雑誌をつくるための覚悟の契機としたい。一方、「寸評」欄は今号でも相変わらず様々な分野の本に出会う手引きの役割とともに、個性あふれる有益な論文に出会える喜びを与えてくれる。

萬海文学賞は創刊50周年を迎えて賞金を引き上げ、特別賞を新設して審査過程を整備するなど大々的な改編を行った。今号に収録された最終審査における大賞作の発表に多くの関心をお寄せいただきたい。申東曄文学賞は詩人のアン・ヒヨンと小説家のクミに与えられた。創批新人文学賞は、評論部門では当選者を出すことができなかったが、詩と小説部門でそれぞれ優れた資質の新鋭を発掘して披露するようになったことを誇りに思う。

 

終わらないかのように嫌になるほど続いた暑さも間もなく終わり、夏は秋に席を譲るであろう。しかし、季節が変わるように、時間が経てば自ずと訪れるようになる次の世界とは異なり、他の世界は「どうせ」訪れる未来ではない。創刊50周年記念企画を引き継いだ今号も、創造的な連帯や切実な積功なしには訪れない新しい社会をつくることに寄与しようとそれなりに奮闘したが、依然として努力すべき点が多い。国家安保のためにじっとしていなさいという莫大な圧力に耐えながら、この時代に蔓延している「どうせ」の論法に抵抗する星州郡民の闘争を見習って、これからもっと努力することを約束する。読者の皆様も一緒に参加してくださると期待しながら、ご声援とともにご鞭撻をお願いしたい。

白英瓊

(翻訳: 李正連)

「87年体制の克服」は「変革的中道」をもって

2016年 夏号(通卷172号)

野党側が分裂した状態でねじれ状態の「与小野大」という結果を生み出した今年4月の総選挙の結果は多くの人を驚かせた。「有権者革命」という表現が登場したほどであるが、朴槿恵政権の「漸進クーデター」企図に大きな打撃を与えたことだけでも、今回の総選挙の政治的成果はとても大きい。

朴槿恵政権の下で民主主義の進展に対する守旧保守からの反撃、巻き戻し(roll back)戦略は民主的ガバナンスの土台を崩壊させる局面へ発展した。これは、守旧保守の安定的覇権の構築を目標とした政治企画であった。歴史教科書の国定化推進、与党内の親政体制の構築、議会の無力化、開城工業団地の閉鎖等がすべてその企画の一環であった。筆者は総選挙の前、これを「漸進クーデター」と規定したことがあるが、朴槿恵政権にとって4月の総選挙は昨年の下半期から強まったこの企画を確固たるものにすることができる重要な機会であったのである。幸いなことに総選挙で政府与党が敗北し、彼らの企図に急ブレーキがかかった。政局の主導権が野党側に移ったと断定することはできないが、政府与党の一方通行式の国政運営は難しくなった。

この劇的な変化は、「87年体制」で進展した民主主義の抵抗力が決して弱くないことを改めて確認できるものである。野党が野党としての役割を果たせてない状況の中でこのような成果を達成したという点でより大きな実感が沸いてくる。今回の総選挙はその勢いを基盤にして、87年体制を安定的で持続可能な生活を保障することのできる新しい体制へ転換させる宿題を民主改革勢力に投げかけた。まさにこの点が大事であるが、国民がねじれ国会をつくってくれたのは、いまは生命力がほとんど消尽された87年体制を改良して、その中で野党の力をもう少し育ててほしいという意味では決してない。

この宿題を成功させるためには、なぜ87年体制が末期的現象を見せたのかというところから省察しなければならない。総選挙以後政治界でも87年体制の克服という話頭がすでに提起されている。来年が6月抗争30周年という点で、その論議が今後さらに活発に進められる可能性が高い。ところが、現在の状況をみると、それは87年憲法、その中でも権力構造の問題に主に焦点を当てたかつての論難を繰り返すおそれが大きい。このような方法では87年体制を乗り越えられる道は見つけがたい。

87年体制の限界は、これまで行われた韓国社会の改革運動が分断体制の克服及び朝鮮半島レベルの総体的改革とつながっていないところから生じたものである。それによって民主的ガバナンスに対する守旧保守による反撃がかなり成功できる政治的、社会的環境がそのまま残された。そして、民主改革勢力も体制転換という大局的観点を忘れ、個別改革課題の実現にのみ没頭したり、分断体制という現実を考慮しないまま、西欧の「進歩モデル」を改革方案として掲げることによって、変革的エネルギーは漸次分散され、弱まった。それによって、守旧保守による民主的ガバナンスへの反撃がより容易く試みられた。その中で、87年体制の末期的現象が全面に現れ始めた。

守旧保守による巻き戻しの試みは今も続いている。彼らにとって議会権力は多くの拠点の一つにすぎず、国政院、検察、警察、国税庁等行政部内の特殊権力機関の他にも言論、宗教、学界の既得権勢力も依然として動員することができるからである。それゆえ、戦術的柔軟性を見せるかもしれないが、分断体制の既得権を維持して強化するための模索は続くであろう。朴槿恵大統領が今回の総選挙の結果を国会に対する審判と規定し、歴史教科書の国定化を行い続けるという意志を表明したのは、「戦術的柔軟性」レベルでも問題になるはずだが、それはともかく北朝鮮との対決構図を強める方法で自身にとって不利な政治雰囲気を変えようとする試みもすでに始まった。

もっと大きな問題は、議会で多数を占める野党側の政党がこのような企図を粉砕し、87年体制の克服及び大転換を実現するビジョンや能力を持っているかである。一旦政権交代と受権が現在の野党側の主要な話頭として登場したのはある程度意味がある。ここ数年間野党内の主要政派または派閥が受権より政治的既得権に関心があるような印象を与えたからである。しかし、政権交代は決して最終目標になれず、韓国社会を変革させるための手段としてとらえなければならない。政権交代を通じてどのような社会をつくるか、87年体制をどのように克服するか等に対する社会的合意をつくり出せた時、行政部の交代が韓国社会の大転換へとつながることも可能になる。

これと関連して、総選挙の前後に野党側で中道論、中道改革論、合理的改革論等が提起されたことに注目する必要がある。硬直した理念的枠や尺度ではなく、韓国の現実に合い、社会構成員の多数を説得できる改革論が必要であるということにある程度共感する雰囲気がつくられているようにみられる。ところが、現実における中道は既得権間の折衷に転落し、体制の克服より体制に安住する政権交代を目標としており、運動性から遠ざかるおそれも大きい。総選挙の過程において、北朝鮮が4次核実験を行ったことに対する政府の無能力や無責任をきちんと追及できず、太陽政策の修正云々する態度や、野党自らがいわゆる「運動圏」に対する否定的認識を拡散させることに熱心だった動きがそのような危惧を加重させる。かつて韓国社会の主な改革が社会的運動のバックアップ無しに行われた例があるだろうか。派閥政治や一部の不適切な行動が国民に失望感を与えたことは事実であるが、それはむしろ真の運動性の喪失、さらに社会運動そのものの退潮と関連づけて批判すべき問題である。それを運動圏の問題として規定するのは飛躍であり、適当な折衷に中道を活用しようとする政治的意図を表すことである。

本誌が一貫して「変革的」中道を提起した理由がまさにここにある。変革的中道は、韓国社会の置かれた客観的状況が中道と変革とが結合できる機会を提供するというところに着眼する。分断体制がそれである。分断体制の克服は韓国社会の改革にのみ視野を限定する時よりはいっそう多様で、幅広い勢力が力を合わせることを求めるという点において、中道的道を歩むべきであり、分断体制の克服過程は前より良い社会を朝鮮半島全域にわたって建設しようとするという点で変革的である。南北間の緊張が高まっている今、分断体制の克服が空虚なスローガンのように見えるかもしれない。ところが、それは分断体制がいつよりも激しく動揺しており、これ以上安定的に維持されることは難しいというシグナルとして見た方がより妥当である。この現実を度外視したり、さらには守旧保守のニーズに合わせたりするやり方では87年体制を克服する動力をつくれるどころか、すでに末期的兆候を見せている87年体制の維持も難しい。分断体制の克服と韓国社会の改革をつなげる大転換が87年体制克服の方向にならなければならない。

このような課題を解決するためには何よりも野党側の換骨奪胎が切実である。「共に民主党」は派閥論難から依然として抜け出していない。「親盧(盧武鉉)」または「親文(文在寅)」という区分法は他の政治勢力が自身の政治的利益のためにつくり出したフレームだという主張もある。しかし、党内の中心勢力が政権交代、さらに韓国社会における大転換の実現より特定の人を大統領の候補として固めることに関心がより多いような印象を与えたのは事実である。これは、総選挙で政党支持率が3位に止まった主な原因である。院内第一党になった共に民主党は大局的態度で野党側の多様なアイディアと人物が競争し、新しい可能性を模索する場づくりにおいて先頭に立たなければならない。それができてこそ、野党側の中心勢力としての役割を続けることができる。

「国民の党」は反射的利益によって第三党の位置を占めたが、韓国社会の大転換という課題を遂行する準備ができたとは言い難い。有権者が現在の三者構図をつくり出したのは、遅々として進まない野党側を韓国社会の大転換に必要な課題を解決できる勢力として再誕生させたいからである。国民の党がこのようなニーズに応えられず、反射的利益によってつくられた三者構図や共に民主党とセヌリ党の間の中間政党としての位置にのみ頼ると、かつての第三党または第四党の運命から抜け出すことは難しくなる。最後に、総選挙で7%の政党支持率を記録した「正義党」は、有意味で新しい政治的可能性をつくるのにことにおおいて依然として重要な役割を果たすことができる。ただし、今回の総選挙において見せた動きには残念なところもある。共に民主党と国民の党が中道を主張した時、彼らの中道にどのような限界があるのかを気付かせて、それを変革的方向へ導く正義党の役割が必要であった。しかし、選挙連合党の政治工学に力を注ぎ、正義党自身の政治的存在理由を見せつけることにおいてはあまり成功していない。正義党には今後小さな政治的利益を越えて、韓国社会の大転換において先頭に立つ動きを見せてほしい。

市民社会の役割も相変わらう重要である。市民社会は、韓国社会における大転換のためのビジョンを生産し、政治圏が狭い利害関係を越えて真の変化の道を歩むように牽引できる潜在力を持っている。それを発揮するためには、自足的で慣性的活動を一貫したり、政派的な偏向に閉じこもる方法で統合や連合を主張するなど、今回の総選挙の過程で見せた動きから脱し、国民の賢明な選択を信頼することによって、大転換に対するビジョンを立てることができなければならない。国民が87年体制の末期的現象の根源に気付き始めている今こそ、政治圏や市民社会が変革的中道の精神によって大転換企画を積極的に進めるべき時である。国民がせっかくつくってくれたチャンスを二度と逃さないための皆の新しい覚悟と格別な努力が求められる。

今号の特輯は、「韓国文学、『閉ざされた未来』と戦う」というテーマを掲げる。昨今の厳しい現実はいかなる未来の生活も期待しがたいほど展望が暗くて固く閉ざされているようである。韓国文学も全般的にそれを反映するかのように、なかなか希望の根拠を見出せていないが、その中を覗き込んでみると、困難な現在の生活を耐えながら、未来に至る門を閉じようとしない芸術的奮闘が行われていることを感知することができる。特輯に組まれた論文は、今日の韓国文学が厳酷な民衆の現実にもかかわらず、その中で新たな可能性を探し求める難しい課題にどのように取り組んでいるかを多様な方法で論じる。

姜敬錫は、前号の黄圭官の論議に続き、民衆文学論を再び検討する。「異なる世界」を念願する熱望と連帯を潜在的に持つ今日の人々を指す名称として再び「民衆」が的確となりつつあることを指摘し、民衆性やリアリティ問題を中心に今日の文学現場を幅広く点検する一方、韓国文学がどのように「未来を図って」行くべきかを熟考する。ハン・ヨンインは、暗い現実の中で不安な生活に耐えることの意味を趙海珍とユン・ゴウンの小説を通じて細心に考察する。資本の論理に包囲・包摂された無気力な人間を扱っている彼らの作品は、今日の生活のある底辺を正直に見せることによって、無駄な期待のない生活のスタートを可能にさせると力説する。

ヤン・ギョンオンは、最近詩が無気力だという評価を再考しながら、近作の詩がどのように政治的な力量を発揮しながら、現実と向き合っているのか、そしてどのように展望を準備しているのかを検討する。ファン・インチャンとイム・ソラ、チョン・ハナとチョン・ムニョンの作品分析を通じて同時代の詩を「改めて」政治的に読むためにどのような姿勢が必要なのかを探る。ソ・ヨンヒョンは、ヘル(Hell)/脱朝鮮論が持つ矛盾的地点、隠蔽された部分について言及しながら、なぜそのような矛盾が露出されざるを得ないのかを分析する。最近注目されているチャン・ガンミョンとパク・ミンジョン等の若手小説家の作品に対する鋭い分析が目を引く。

「文学評論」では『菜食主義者(ベジタリアン)』でブッカー国際賞を受賞した韓江の主要作品をシン・セッピョルが「植物的主体性」と「身を引く感覚」を要諦として精読する。韓江の熾烈な作品も「閉ざされた未来」と戦う奮闘の現場であることが明らかとなる。歴史学者のト・ジンスンは李陸史の後期主要作であり、かつ代表的な抗日詩である「広野」を分析した論文を寄せてくれた。李陸史の現在的意味を反芻すると同時に、歴史学者の観点から文学作品を検討する新しい視点が興味深い。

「創作」欄も豊富である。まず前号に引き続き、キム・ジョンファンからチョ・ギゾまで韓国詩壇を代表する詩人25人の新作詩を載せた。「小説」欄ではチョ・ガプサン、チョン・ミギョン、パク・サラン、クォン・ヨソンがそれぞれ個性あふれる作品世界を披露する。とくに、チョ・ガプサンの短編は現在の歴史国定教科書と関連して熟考すべき事案を投げかけており、クォン・ヨソンの中編は殺人事件をめぐる真実の問題を深く取り扱う。

「文学フォーカス」では白智延、金素延がキム・ヨンチャン評論家と一緒にセウォル号関連の記録文学をはじめ、近作の詩集と小説を検討した。韓国文学において新しい活力の契機を探し求める参加者の熱誠がところどころに見られる。「作家スポットライト」では詩人のパク・ソランが今年の初め『私は韓国人ではない』を発表した「街の詩人」のソン・ギョンドンに会い、彼の詳細なストーリと文学に対する様々な考えを伺った。

「対話」は、本誌の連続企画「韓国の『保守勢力』を診断する」の二回目のテーマとして韓国の軍隊を取り扱う。20代国会で注目されている新人議員のキム・ゾンデ当選者、豊富な軍経験をもつヨ・ソクチュ元国政状況室情勢分析担当、平和運動を活発に展開しているイ・テホ参与連帯政策委員長が軍の人権、国防不正、軍に対する民主的統制など、韓国の軍隊が露呈した問題を診断し、改革方策について議論する。

「論壇」において韓洪九は、異なる位置で韓国現代史に著しい足跡を残した金鍾泌、李鍾賛、任在慶の回顧録をまとめて評する。歴史の現場を生々しい声を通じて伝える回顧録を綿密に検討し、その中に盛り込まれた重要な争点を明らかにした論文である。姜貞淑は日本軍「慰安婦」という難しい歴史的宿題を解決するのに、韓国の歴史研究がどのように寄与してきたのか、今後どのような役割を果たすべきかを検討する。

「現場」欄では、まず連続企画「少数者の目で韓国社会を見る」をヤン・ヘウが移住者問題で担当した。移住者関連法の制定がまた新たな分割や排除をもたらした現実を喚起させながら、国民国家の中に閉ざされた市民権の概念を乗り越えなければならないと主張する。チョン・ヒョンゴンは市民政治の視点から今回の総選挙の成果と限界を評価し、今後の課題を論じる。選挙結果が再び政党によってのみ占有される現実を乗り越えるための模索が必要だと強調する。

久しぶりに再開した「散文」欄では、人権運動家のミリュが、セウォル号惨事対策活動過程において対話と連帯の可能性を求めていく過程を淡々と述べる。決して忘れてはならず、中断されてもいけない戦いを耐えていく現場の記録でもある。これからも生活と運動の現場を新たな感覚で紹介できる論文で散文欄を構成する予定である。「寸評」は相変わらず読者にとって楽しい読書のための手引きとしての役割を果たしているだけではなく、寸評そのものも素晴らしい読み物である。そして「読者の声」は前号のように「創批へのお願い」インタビューでつくってみた。長い間創批を読んできた活動家や学者からの愛情のこもった助言と厳しい指摘を改めて受け止める契機となった。

韓江のブッカー国際賞受賞に加え、読者の皆様とともにお祝いしたいお知らせをもう一つお伝えする。本誌創刊50周年を記念する長編小説賞にクム・テヒョンの『マンゴースクエア』が当選された。晩学の新人小説家のデビューをお祝いし、良い作品を期待する。

創刊50周年記念号である前号に対して読者の皆様から熱い反応をいただいた。このような支持にお応えできる道は、春号の巻頭言で約束した多くのことを誠実に実践していくことだと考える。今号もそのような姿勢で準備した。今後もご声援ご鞭撻を贈りますようお願い申し上げる。新しい編集陣は常に開かれた姿勢で読者の皆様のご意見に耳を傾けていきたい。

 李南周

 

翻訳: 李正連(イ・ジョンヨン)

新たな50年を切り拓きながら

2016年 春号(通卷171号)

季刊『創作と批評』が創刊50周年を迎える。政論をまとめる総合文芸誌として半世紀間屈せずに精進してきたことは世界的にも稀であり、自祝すべきことだが、現在私たちの状況は創刊当時と同じく厳しいため、喜ぶばかりではいられない。ここまで歩んできた道を振り返りながら、新たな50年に臨む覚悟と今後の基本的な編集の方向性を明らかにしたい。

創批がこれまで経験してきた苦難は、戦後の劣悪な状況の中で、分断韓国の民主主義と統一のために、そして主体的な民族文学の発展のために、「創造と抵抗の姿勢を改めることのできる拠点」(「新しい創作と批評の姿勢」、創刊号)になりたいと思っていた時から予定されていたことかもしれない。その大きな決議を実践するのには残酷な試練が伴われたが、販売禁止や廃刊、出版社の登録取消、関係者の拘禁と投獄までを経験したのである。

しかし、その苦難は、創批が韓国の作家や知識人にとって誇りであり、やり甲斐となる道でもある。『創批』は頼れるところのなかった厳しい時代に、有志の文学芸術家、学者、社会運動家等の批判的知性人の発表紙面であり、当代の核心争点をめぐって活発な討論を行う公論の場であった。ここで形成された創意と公心(公正な考え)と知恵を基にして今日の創批になったが故に、創批は創批だけのものではなかったわけである。また、白楽晴創刊編集人をはじめとする歴代の編集主幹と編集委員たちの苦労はもちろんのこと、貧困や時代的迫害の中でも、我が社会がよりよい社会になるように努めてきた大衆の隠れた労力がなければ、今日に至ることはできなかったであろう。

『創批』は当代現実に適する批評・言説及び精選された作品を発表することによって、民族文学の産室であり、かつ主体的言説の生産者として成長した。この過程は順調ではなかった。西欧中心部の最新思想や文芸潮流を迅速に受け入れることを主な課業とする学問的風土に対抗し、『創批』は世界体制周辺部の民衆、それも分断国住民の立場から批評的に思惟する主体化の過程を遂行するために奮闘したからである。その苦闘の跡が数多くの論争の形として『創批』の紙面に刻まれているだけではなく、その結実はリアリズム、民族文学論、分断体制論、近代適応・近代克服の二重課題論、東アジア論、87年体制論、変革的中途主義論等の創批理論として具現されている。

そのような着実な努力と結実の過程において、昨年6月に起こった剽窃論難事態はもう一つの試練であった。創批は性急な初期対応を反省すると同時に、内部討論を通じて事態の真実に符合する立場と原則を共有し、それを最後まで守りきった。大きく見て、原則を守る対応だけが韓国文学のための道であり、今回の事態で失った読者の信頼を取り戻す最善の道と判断したのである。同時に、この事態を自己省察の鏡としようとし(「創批をめぐる剽窃と文学権力論の省察」、2015年冬号参照)、創批が「文学権力」という批判を招くほど、これまで作家と読者に権威的だったり、疎通や紐帯を疎かにしたりなどしなかったかを振り返りながら、今後韓国文学によりいっそう献身する覚悟を決めるようになった。

創刊以来『創批』を牽引してきた編集員が退任し、新たな50年を始める私たちは、文学中心性を強化することを主な編集方向としたい。「文学中心性」の強化とは、一次的には政論誌を兼ねる『創批』の文芸誌としての役割を強化する方向、つまり作家・読者との交流や疎通をより活性化し、紙面で文学部門の創作物や批評の比重を増やすことを意味する。またそれは文学精神を強化するという意味でもある。この際の文学とは、現実との関連性より純粋な美的価値を志向する文学主義、あるいは、ある大義を特定の方式で実現しようとする理念的な文学ではなく、両者の偏向を克服し、同時代の人々の生活や未来に開かれている文学である。したがって、「文学中心性」の強化に社会科学から自然科学までを包括する総合的学問としての人文学が参加するのは当然である。『創批』は今後文学批評と社会批評の共通の「批評的」根源に基づき、我が社会の重要な懸案と核心課題に対して文学・人文社会共同の作業を試みていきたい。

いま一つの編集方向は「現場性の強化」である。この方針は、40周年の時に提起された「運動性の回復」と「創批式作文」を継承・深化しつつ、既得権の外で周辺化された人々の生活の現場を覗き込み、彼らの語りや観点を傾聴するだけではなく、その立場から我が社会全体を省察してみたいという趣旨である。この作業を効果的に推進するために、従来の「論壇と現場」欄をそれぞれ別途のコーナーとして独立させ、その性格に合わせて論文を配置していきたい。また運動性と現場性の強化の編集方針に従い、今号から二つの連続企画を始める。一つは、少数者の生活が如何なるものなのかを検討して少数者の目で韓国社会を眺める企画であり、いま一つは、我が社会の既得権の守護勢力である保守・守旧勢力の実際を解剖する企画である。

私たちの生活は、現在3つのレベルの体制−87年体制、分断体制、資本主義世界体制−上の危機に直面している。市民の力で勝ち取って建設した87年体制が新たな体制へ跳躍するばかりか、むしろその水準にも至らない体制へと帰結する危機、南北関係の悪化によって分断の韓半島が南北共同の禍を被り、またはそれぞれもっと悪い状態へと転落する危機、そして人類と地球全体を危険に陥らせる資本主義世界体制の危機がそれである。私たちの目の前の危機が、このように少なくとも3つの層位が重なったものであるため、ここで活路を求めることは高度な能力や知恵を要する。このような三重の危機を乗り越えることこそ、創批の新たな50年の主な課業であろう。私たちは、過去50年間積み重ねてきた経験やノウハウを基にして、もう一度有志の知恵を集める実践的集団知性の求心であり、かつ大転換を成し遂げる「創造と抵抗の拠点」になりたい。この困難な道を勇敢に、そして真心を込めて乗り越えていくことが、険しい道を先に歩んできた先輩たちと、今日の創批をつくってくださった多くの方々に対して恩返しできることだと信じる。

「50周年特別企画:創批に願う」には、本誌の編集委員6人が国内外の文人や研究者、市民運動家、編集者等に会い、これまで『創批』を読んできた所感と評価を盛り込んだ。本誌とのご縁や注目する部分はそれぞれ違うが、共通するのは創刊以来本誌が自任してきた「創造と抵抗の拠点」としての役割が依然として有効であり、最近はより切実となったという点である。各自の現場で熾烈に活動する方々からいただいた愛情の込もった苦言と編集方向に対する提言をすべて大事にし、新たな50年の土台にしたい。インタビューに応じてくださった6人の方に感謝申し上げる。

特輯「大転換、どこから始めようか」では、現在私たちが直面している時代逆行的で、重層的な危機の基本的な性格を文学と政治・社会の具体的な文脈から細心に検討することによって、反動的流れの中でも大転換を成し遂げる手がかりを見つけ、実践的課題を提示したい。韓基煜は、何の前提もない文学の開かれた道を歩む時こそが創造的可能性を掴み、時代の真実が明らかになると力説しながら、私たちが生きるねじれた社会を正す変革的主体の問題を提起する。続いて、文学のアトポス(Atopos、非場所)論に至る最近の文学論議の流れを考察し、白無産の詩とキム・グミの小説をはじめとする現在の韓国文学が、資本主義体制の根本を省察しながら時代的生活の真実をあらわす文学のアトポスが具現される現場であることを見せてくれる。

李南周は、現在韓国社会の危機局面が、分断体制の維持に死活をかけた守旧勢力の挑戦に対して、民主改革勢力がきちんと対応できていないところに起因していると強調する。民主的ガバナンスを段階的に壊す守旧勢力の「漸進クーデター」に対抗するためには、野党陣営と市民社会が87年体制の克服をはじめとする「大転換」の企画を共同で立てていくと同時に、来る総選挙でそれぞれ自分の役割を充実に移行しなければならないと力説する。ペク・ヨンギョンは、1987年以来我が社会で成長してきた少数者運動と論議が最近の民主主義の後退の中で攻撃されていると診断し、少数者運動と論議を人権保護レベルに限定する傾向をその原因として指摘する。我が社会において「市民」は誰であり、「人権」の適用を制約するのは何かを問いただすことを通じて、少数者の人権・市民権が韓国社会全般の転換と結び付く核心課題であることを主張する。

ファン・ギュグァンは、1980年代に繁盛し、いまは退潮したようにみえる民衆詩の面々を再検討する。イム・ソンヨン、ソン・ギョンドン、パク・ソラン、白無産等、最近発表された注目すべき民衆詩と「詩と政治」論議を一緒に扱いながら、民衆詩の本質が政治的プロパガンダと事実再現の枠から脱し、民衆の潜在力を原始言語の自由な力で表現するところにあると強調する。黄静雅は、文学が倫理的・知的課題を担う模範としてJ.M.クッツェーの長編『エリザベス・コステロ』を論じる。この小説で露わになる動物性と人間性の境界に注目しながら、動物に対する認識と態度の変化が結局私たち自身を見る観点の変化と絡みあっていると、それゆえ、人間と生活の根本的転換に向けた話題を抱いていると指摘する。本誌は今後も世界文学を本格的な批評レベルで取り扱う予定である。

なお、「創作」欄も50周年を記念して豊富に用意した。今年の「詩」欄は韓国詩壇を代表する詩人100人の新作詩で飾る。春号では、その第1次分として24本を掲載する。多彩で壮大な韓国詩の足跡を鮮明に表すために、登壇順に配置したことを明かしておく。「小説」欄ではこれまで長編執筆に専念してきた黄皙暎の新作短編を載せる。現代史が生んだ傷痕と治癒の可能性を描く、日常的で淡々とした筆致がむしろ毅然としている。イ・ギホ、チョウ・ヘジン、チェ・ジョンファの短編もそれぞれ固有の語法や個性で紙面を豊かなものにしてくれる。なお、本誌を通じて中編『種火』で登壇した孔善玉が実験的な作風の中編をもって再び読者を訪ねる。「小説」欄は今年1年間、中短編特集にする予定である。

今年の「文学フォーカス」は、詩人のキム・ソヨンと評論家の白智延が担当する。その初回のゲストとして、詩人であり、かつ小説家、評論家等の全方位的活動をしてきたキム・ジョンファンが参加し、近作詩集と小説集6冊について興味深い討論を繰り広げる。「作家スポットライト」では小説家の全成太が小説集『世にない私の家』で注目された中国同胞(朝鮮族)作家のクミをインタビューし、作家の履歴や素材に隠されやすい作品世界を細心に検討する。
「対話」は、韓国の「保守勢力」を診断する連続企画の初回として韓国宗教文化研究の権威者であるカン・インチョルと、宗教分野でも活発な著作活動をしてきた朴露子がプロテスタント問題を中心に韓国宗教の「保守性」をめぐって行った討論を地上中継する。二人の討論から韓国宗教一角の守旧的な理念性の問題を十分に実感することができよう。「論壇と現場」から分離独立した「現場」は、少数者の目から韓国社会を見る連続企画の初回としてキム・ドヒョンの論文を載せる。理性主義と労働能力中心の近代社会から疎外されてきた障害者が完全なる政治的権利を獲得することが、平等と自由に基づく新しい連帯の実験であることに違いないことを主張する。「寸評」欄も丁寧に構成した。一々紹介はできないが、ご尽力いただいた筆者の皆様に御礼を申し上げたい。本誌の自慢の一つである「寸評」欄は今後も継続し、より発展させていく予定である。

大学生文士たちの登竜門である大山大学文学賞が第14回を迎え、当選作を発表する。お祝い申し上げるとともに、今後韓国文学における期待の星として成長していただきたい。
創刊50周年を機に、発行人と編集員、編集主幹をはじめ、編集委員会が改編された。白楽晴編集員と金潤洙発行人、そして白永瑞編集主幹が退任し、カン・イル創批代表理事が発行人兼編集員を、韓基煜が編集主幹を、李南周が副主幹を担う。新任発行人兼編集員は本誌の発行に関する法的な責任と財政的支援を担当し、編集権は編集主幹を中心とする編集委員会に一任する新しい体制である。編集委員としては崔元植とコ・セヒョン、李章旭が退き、若手歴史学者のキム・テウと文学評論家のハン・ヨンインが合流する。白楽晴は名誉編集員、金潤洙と白永瑞、廉武雄、李時英、林熒澤、崔元植は編集顧問を担うこととなる。これまで労苦を惜しまなかったすべての方々に御礼を申し上げるとともに、新しい編集団を組織して新たな50年を迎える創批に対する読者の皆様からの叱正と変わらぬ声援をお願い申し上げたい。

韓基煜

訳:李正連(イ・ジョンヨン)

歴史クーデターではなく、新型クーデター局面である

2015年 冬号(通卷170号)

まさかと思っていた歴史教科書国定化という爆弾が落ちた。教育部が去る10月12日中・高校の歴史教科書を2017年3月から国定化するという案を行政予告し、11月3日これを確定告示することによって、歴史教科書国定化が本格的な推進段階へと入った。不通と独善で点綴された朴槿恵政権の振る舞いを見れば、予想可能なことである。そうだとしても世論の激しい反発とさまざまな国政懸案が座礁される危険までを甘受しながら、政府・与党が国定化を推し進める意図は何かを反芻してみる必要がある。

朴槿恵政権が、世論が自分たちに不利に働くだけではないと判断したともいえるが、激しい反発を招くだろうという点はすでに予想されたことである。そうであるならば、短期的な不利益を甘受しながらも、国定化を推し進めると判断したと考えなければならない。親日の合理化や維新の正当化等がこれに対する有力な説明として提示されたりする。歴史クーデターという批判もここから始まる。しかし、権力政治に誰よりも鋭敏な感覚をもつ現政権が単に自分たちに有利な歴史的解釈を教科書に盛り込むために、このようなことを引き起こしただろうか。もし政権交代になれば、「1年きり」で終わってしまう点までを考慮すれば、疑問はいっそう膨らむ。

彼らにとって真の問題はいつも歴史ではなく、政治なのである。国民世論と専門家の見解、行政手続きを無視し、さらに進んで透明性を保障するといった自分たちの約束までを覆した国定化推進過程をみると、「歴史クーデター」という規定は説得力がある。しかし、それが歴史に限定されず、民主化の成果をすべて無化させようとする「政変」の一環であれば、私たちの警戒心はより高められなければならない。国定化局面において、朴槿恵大統領は「明確な歴史観がないと統一も難しく、統一されても結局思想的に支配される状況が発生し得る」と主張した。さらに、「正しい歴史を学ばないと、魂が異常にならざるを得ない」と一喝した。統一のための思想的準備と異常な魂の正常化が歴史教科書の国定化によって実現できることなのだろうか。このような論理が政治的にどこへ帰結するかは、10月維新等を経験した私たちからすれば、とても明確である。金武星代表等のような、国定化を積極的に主張する人たちが現行の検定歴史教科書をすべて「反大韓民国史観」によって書かれたということを国定化の理由として、「国論分裂の防止と国民統合」を国定化の最終目標として提示しているところに彼らの真の意図がいっそう明確に表れる。すなわち、大韓民国と反大韓民国という対立構図に我が社会を区分し、維新時代の「国民総和」を復元しようということなのである。それによって、自身に不利だと判断される「民主−反民主」あるいは「進歩−保守(あるいは守旧)」のような対決構図を代替することに成功すれば、それを通して批判勢力を反国家的勢力として規定し、彼らの政治的生存権までを剥奪することができるようになる。

1987年6月抗争以後作られた民主的秩序に対する煩わしさは朴槿恵大統領とその支持勢力が長年共有してきたものである。これを変形させようとする試みも絶えず行われてきた。かつての国政院のコメント投稿事件は民主的秩序に対して正面から否定することであり、当時も銃声なきクーデターという批判が提起された。それは、李明博政権が行ったことであり、朴槿恵大統領はその受益者として李政権を「掩護」した程度だと考えがちであるが、朴槿恵政権の出帆以後、三権分立の無視、国政院の政治介入等の事態が繰り返されることをみれば、大統領の本心がどこにあるかは明らかである。今後国定化推進の前提となっている発想が韓国社会の全般を貫通するようになれば、その過程はもぞもぞと進む一種の低強度クーデター(creeping coup d’état)、まもなく民主的体制の漸進的廃棄として完成されるだろう。これは、新種クーデターであり、6月抗争の勝利を経験した国民を騙し、なだめながら、守旧勢力の永久執権体制を復元しようとする21世紀韓国のオーダメイド型変種クーデターといえる。かつてのように、軍人が銃剣を振るうやり方ではないので、一気に目標を達成することはできないものの、だからこそ、まさにその理由からとくに抵抗されることなく、その過程が進む可能性もある。では、この新種クーデター局面にどのように対応すべきか。中・高校生、教授、教師等が先導して国定化反対を主張することによって、世論が国定化に非常に否定的な方向へ動いている事態は、朴槿恵政権にとって多少予想外のことかもしれない。市民社会は、国定化問題を直ちに政治化するよりは、常識と原則に関する問題として捉え直し、民主的体制との不調和を浮き彫りにしながら、国定化に対する批判的な世論を拡大させている。我が社会の民主的力量が高いことを見せてくれたのである。しかし、事態の核心が新種クーデターだという鋭い認識が、市民社会でさえまだ明確ではなく、とりわけ野党への支持度が停滞し、下落している状況は、朴槿恵政権が来年の総選挙で勝利して事態を自身の意図通りに進展させる可能性を開いている。政府・与党が選挙によって窮地から抜け出し、政局の主導権を確保した事例はかつて数回あった。すでに朴槿恵大統領が率先して「正直で誠実な人だけが選べられるべきである」と事実上の総選挙審判論を取り出している。

野党陣営、とくに第1野党の新政治民主連合がこのような趨勢を取り戻すためには、単に国定化批判をもって与党の弱点を浮き彫りにして反射利益を狙うのではなく、新種クーデター局面に相応しい特段の対策を講じなければならない。そうしないと、来年の総選挙後の状況はいっそう深刻となり、野党が結果的にクーデター局面の進展を幇助したという批判も逃れ難い。否、野党の総選挙敗北という幇助なしでは決して成功できない無理なクーデターの緊要な助っ人になりかねないである。

もちろん来年総選挙の結果を前もって悲観する必要はない。しかし、現在のように野党陣営が支離滅裂、右往左往する状態が続けば、総選挙で敗北せざるを得ない。この状況を変化させるためには、野党の勝利が特定政派の既得権強化ではなく、国民の勝利になるビジョンを提示し、行動として見せなければならない。最近数年間野党の主要な指導者たちは既得権の放棄を強調したが、実践につながらなかった。これが、最近野党が主要な選挙で連続して敗北した理由であり、互いに必死に戦う人士たちもすべて大枠では無気力症状から抜け出せない理由である。当然国民の信頼を回復できない理由でもある。もちろんどの既得権をどのように放棄するかをめぐる論難があり得る。しかし、この問題を解決することが政治指導者の責務であり、現在最も多く持っている指導者や勢力が他者に押されてではなく、自ら決断して最も多く放棄する行動を見せる時、初めて国民が感動し、新種クーデター局面を逆転させる変化が始まる。国民は、これを切実に待ち望んでおり、見守っている。今や皆が姿勢を正し、21世紀韓国の新たな局面に相応しい新しい汎国民運動を準備する時である。

 

 

今号の特輯は「韓国の文学、これからどこへ」というテーマで、今夏から文壇を越えて社会的関心になった剽窃(盗作)と文学権力論難を整理し、韓国文学の進むべき道を模索する対話と論文で構成した。自身と文学に対する省察、そして社会的次元での変化のための努力が別物ではないという点から、これは本誌の一貫した関心事と直結する作業である。これまで提起された主要な争点に対して今こそ落ち着いて深く議論すれば、その熱気が韓国文学の発展のためのエネルギーとして昇華することができると思われる。

「対話」では本誌の編集委員のカン・ギョンソクの司会で 金炅延·金南一·蘇栄炫·尹志寬·姜敬錫が参加して剽窃と文学権力論争過程で提起された争点について虚心坦懐に議論した。活発に取り上げられた論点の裏面に作用する構造的で、根本的な問題を明らかにし、その後の発展的議論のための糸口を提示する。廉鍾善は内部者の視点から創批をめぐる最近の論難をじっくり点検する。剽窃と文学権力論争過程において創批の明らかな過ちと誤解・誤導された事実関係を詳細に区分して説明することによって、今回の事態の実際と争点、関連論議の性格と虚実を把握するのに必須の基礎資料を提供する。

白智延は、申京淑小説に対する過去の批評を文学史的言説と作品論議を通じて再検討し、これまで創批文学に提起された問いに批評的に答える。1990年代創批の批評言説における変化をリアリズムの刷新という流れの中で解釈し、一方、これを学術的に体系化できない限界を指摘する。白楽晴は今回の事態を直接言及する代わりに、「近代適応と近代克服の二重課題」の視点からリアリズムの役割、文学と政治問題等を点検する。すべての形而上学的概念を超える文学と芸術の居所を明らかにするため、「道」とその力としての「徳」、そして関連する「律」の問題を最近の韓国文学の問題作と関連付けて論じることによって、「韓国文学の進むべき道」の模索に寄与しようとしている。

「文学フォーカス」では文学評論家、崔元植と対話を行った。今季に注目できる詩・小説新刊を中心に交わす三人の座談者の文学談話が興味深くて有益である。1年間この誌面を充実に満たしてくださった愼鏞穆、鄭弘樹のお二方に感謝の意を表したい。「作家スポットライト」では最近詩集『廃墟を引き揚げる』を出版した白無産詩人を紹介する。中堅詩人の鄭宇泳との話を通じて伝わる詩人の肉声がひたすら熱く聞こえる。

廉武雄の「文学評論」は、我が文学史の一時期を風靡した林和が日帝時代からKAPF(朝鮮プロレタリア芸術家同盟)の過度な政治主義と文学的純粋主義という両極端を克服し、民族文学理念を形成していった過程を、そしてその模索が南北分断と戦争という現実的条件で挫折する残念な過程を深く追跡する。

「創作」欄では、全成太の長編連載が作家の不可避な事情によって中断されたことについて読者の皆様にお詫び申し上げる。幸いにも成碩濟、殷熙耕、崔眞英らそれぞれ異なる色を持つ現代の代表的な語り手たちの短編小説が今号の創作欄を飾った。金正煥、朴瑩浚など11名の詩人の新作を盛り込んだ「詩」欄もいつものように多彩に構成された。

「論壇と現場」も多様に組まれた。柳昌馥と林慶洙の論文は地域共同体の活性化のために諸自治体が進めているまちづくり事業を検討する。各々ソウルと全羅北道完州の事例としてそれまでの成果と問題点を検討しながら、同事業が我が社会の直面している問題を解決するのにどのような示唆を与えられるかを示している。アメリカの外交政策専門家のジョン・フェッファーは、人類の未来のために火星を探査し、外界の知的生命体を探そうとする努力が実は植民主義の変種にすぎないことを辛辣に指摘しながら、地球を保全するためには伝統的な知性の克服が先行される必要があるという興味深い論旨を展開する。アメリカで活躍するチリ出身の作家アリエル・ドルフマンはルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』を興味深く読み取ることによって、変革運動の希望を夢見る。過去に「左の国」の謹厳で重い言語と態度が過ちであったならば、現在はこの名作童話のカーニバル的エネルギーと煽動性がよりいっそう貴重になっていることを力説する。第5回社会人文学評論賞受賞作であるチョン・ヒョンの「セウォル号以後政治的なことの『世俗化』」はセウォル号事態以後、死に対する、過去とは大きく違う態度を媒介に近代的政治共同体の没落の兆候を分析し、このような事態を招いた「動物的俗物性」を中断させる新しい理念的方向感覚を求めるべき必要性を提起する。社会人文学評論賞はより多くの若い論客が参加できるように、改善策を用意している。読者の皆様の持続的な関心をお願い申し上げる。

本誌で欠かせない「寸評」、「文化評」、「教育時評」も少ない分量ではあるものの、多くを考えさせられる。なお、第17回白石文学賞が発表された。受賞作は白無産詩集『廃墟を引き揚げる』である。熾烈な現実変革意志と内面探求とを同時に行う作家の詩的道程において同賞が少しでも応援になれば嬉しい。

いつのまにか年が暮れていく。ところが、私たちの直面している多くの問題は年が変わってもより深刻になりそうにみえる。いつもよりも過ぎ去った時間に対して真摯に省察し、新しい覚悟を決めなければならない。本誌は新年にちょうど創刊50周年を迎える。読者の皆様に革新した構成と姿勢でお訪ねすることを約束する。

李南周

 

訳:李 正連(イ・ジョンヨン)

剽窃と文学権力の論難を経験して

2015年 秋号(通卷169号)

白永瑞

今号を発行する編集陣の心構えはいつもより慎重です。去る6月申京淑作家の剽窃(盗作)騒動を経験した後、内外の方々が秋号を注視していることをよく知っているからです。

まず、編集主幹としてこの場をお借りし、本誌を愛してくださる読者の皆様にご心配をおかけしたことについてお詫び申し上げます。論難が生じた当時、私はサバティカルで海外の大学で講義中でした。文学出版部名義の最初の報道資料が内部での議論も経ずに出されたことで、読者の憤怒と論難を拡大させたことが、このような私個人の事情とも関係があるので、個人的にもっと申し訳なく思っております。とくに、創批の場合、編集者を含む編集委員たちは機関誌の編集を担当しており、私だけが機関誌と単行本の出版業務を一緒に掌るシステムであるため、さらに困惑しました。

私は、その後私たちに集中された社会的関心や反応に驚きながらも、そこには創批が約50年間歩んできた道に対する信頼や期待も込められていたと思いました。それゆえ、それだけ強い責任を感じ、深い省察の契機にしなければならないと強く思いました。

私たちはこの間内部討論を経て、申京淑の当該作品において剽窃論難を十分に招き得る文字的類似性が発見されるという事実に合意しました。ところが、同時にそのような類似性を意図的書き写し(盗作)と断定することはできないと判断しました。そうであるならば、無意識的な借用や盗用も含む広義の剽窃であるという点だけでも、迅速に認め、文学における「剽窃」とは何かについて討論を提議する手順を踏むべきだったかもしれません。しかし、作家が「意識的な盗作」をし、出版社はお金のためにそのような盗作行為を庇護していると断罪する雰囲気が圧倒する状況の中で、創批がいかなる言明をしても、結局は一人の作家を罵倒する雰囲気に合流するか、または「商業主義に堕落した文学権力」という非難を生むジレンマを避ける道がなかったので、私たちはこの間沈黙を選ばざるを得ませんでした。しかし、今は落ち着いて理性的に議論できるところに来ており、また読者の皆様には創批の立場を多少なりともご理解いただいた上で、ご批判いただけるのではないかと敢えて期待してみます。

剽窃問題に対する発言がとくに難しかったのは、それが他の争点、つまり文学権力(ないし文化権力)論難と結び付いているからです。創批が「文学権力」として名指しされた途端に、感情や道徳レベルの非難対象とされ、どの発言をしても不純な権力行使として見られがちでした。しかし、その問題も綿密に検討してみる時ではないかと思います。文学権力というのが文学場の中で一定の資源と権威をもつ出版企業を意味し、その出版社が有数な雑誌を生産する下部構造として機能することを意味するのであるならば、創批を文学権力と言ってもよいと思います。ところが、創刊号の巻頭論文で「創造と抵抗の拠点としての役割」を自任した創批にとって、公共的価値の実現は創社以来の最も重要な目標です。そして公共性を持続的に実現するためには、物的基盤を備えることが必要だと思いましたので、公共性と事業性との結合のために絶えず悩んできました。創批がこれまで積み上げてきた事業的成果も私たちの公共的寄与と関係があると、私は思います。もちろん創批がその過程において両者間のバランスをいつも上手に維持してきたと主張することではありません。

私が創批の主幹を担当するようになったのは、創批が創刊40周年を迎えた10年前のことです。当時は盧武鉉政権が後半期に入り、「進歩の危機」が言われはじめ、新自由主義の市場論理がますます強まる時でした。そこで、私は創批革新の基本方向を「運動性の回復」と決めました。去る10年を振り返ってみると、当時の約束に比べてその成果がまだ物足りない感じはしますが、創批の編集陣がその目標を忘れたことはなかったと自信を持って言えます。これからも私たちは読者の皆様の愛情の込もった批判に耳を傾け、姿勢を一層正すようにしたいと思います。

そのためには文学権力、さらに出版権力とは比べることもできないほど巨大な言論権力や宗教権力等を含む文化権力の実態とその具体的作動様相を分析する作業も当然必要となります。ところが、今号にはまず最近の事態をめぐる外部からの多様な見解を傾聴し、今後より深まった討論の資料とするため、他のところで発表された3人の論文を「緊急企画」欄に掲載させていただきます。一つは、文化連帯と韓国作家会議が主催した討論会で発表された討論文であり、もう一つは文化連帯と人文学協同組合主催の討論会で出された論文です。最後の一つは、韓国作家会議ホームページの掲示板に掲載された論文です。

この企画はもちろん一つの出発点に過ぎません。私たちは文学における模倣と剽窃、文学権力問題など、今回大きく浮き彫りになったテーマを持続的に探求するだけではなく、創批が十数年間念入りにつくりあげてきた「創批言説」をより充実化し、すばらしい文学を生産して評価する作業をいっそう積極的に行いたいと思います。私たちに与えられた貴重な資源を謙虚に活用しながら、韓国文学と文化の創造力を高め、公共性を具現するために、多様な運動を展開する方々と連帯及び善意の競争を大いに図りたいと思います。読者の皆様の変わらぬ愛情と鞭撻を心よりお願い申し上げます。

 

終戦70年であり、かつ解放70年を迎えて、本誌は「創批言説」の観点からその現在的意味を探るという趣旨で、特輯「時代転換の兆候を読む」を用意し、4本の論文を集めました。「資本主義の終末」が公然と取り上げられる世界史的・文明史的転換のレベル、中国の大国崛起がもたらした地域秩序の変化という東アジアレベル、そして朝鮮半島レベルの分断体制の動揺が度重なる局面において、韓国では前例のないより大きな転換を予感、あるいは期待します。

金鍾曄は、韓国レベルで87年体制の政治的転換の可能性を点検します。私たちが日常で実感している危機構造を脱民主化に伴う国家能力の継続的な悪化としてとらえ、その克服のための短期的課題を、まさに今論争中の圏域別比例代表制の導入において探ります。それは、古い習俗から抜け出した社会運動勢力を中心にして、選挙法連帯が稼動する時に実現できると展望します。キム・ヨンチョルは、解放70年を分断70年と規定し、朝鮮半島レベルでの転換の道を、北朝鮮を中心に模索します。分断体制が北朝鮮の国家形成において韓国との差異や競争の環境を造成したことを、歴史的アプローチによって分析し、北朝鮮の崩壊ではない変化の可能性に注目します。

昨年出版された『白楽晴が大転換の道を問う』と真摯に対話する金東春は、当面の短期課題を中長期的観点と結びつけて思考する白楽晴のアプローチ方法を高く評価しながら、その本で語る「大転換」の実際内容と未来構想がより充実になれる方法を提案します。朴槿恵政権の跛行とその克服という課題を分断体制の克服及び19世紀末以来強要されてきた非自主的近代化の克服という重層的時間帯の課題とつなげなければならないということです。温鐵軍等は中国の新国家戦略の「一帯一路」を陸上勢力と海上勢力との覇権葛藤として展開された19世紀末以来の世界史レベルで把握します。そして社会正義の理念と文化多様性のビジョンが盛り込まれた生態文明戦略を中国内で実現してからこそ、代案言説が説得力を持つことになると力説します。

元老人文学者の林熒澤と宮嶋博史を中心に行われた「対話」も特輯の趣旨とつながります。中国大国化がもたらす東アジア秩序の変化と絡み合っている今日の日韓対立問題を思想史・文明史的観点から巨視的に分析し、オルタナティブパラダイムの可能性を東アジアの思想資源において探る格調高い討論の場です。

今年はバンドン会議60周年になる年でもあります。「論壇と現場」欄では第3世界の現在的意味を再考するために、ウガンダ知識人のマフムード・マムダニがアフリカ的視点からアメリカの形成に関する言説を批判的に検討した論文を載せます。インディアンの運命を通して定着型植民主義の先駆だったアメリカ史の特性を浮き彫りにさせる野心的作業として、近代世界の植民支配歴史を再考する契機を与えてくれると思います。その他に、前号のサード(THAAD)関連の論文に対する反論が投稿されました。韓国に配置しようとするサードが韓国を狙う北朝鮮の攻撃危険に対処するものではなく、対中国用であるという根拠を提示していることがその骨子です。また今年の5月、香港で開かれた「東アジアの批判的雑誌会議」の成果を丁寧に伝える論文、マーズ事態の真相と医療体系の改善点を市民の視点からわかりやすく説明した論文が読者の皆様をお待ちしています。

「緊急企画」欄には、上述したように申京淑の剽窃問題に関する3本の平文が掲載されます。チョン・ウンギョン、キム・デソン、ユン・ジグァンはそれぞれ異なる立場から剽窃と文学権力論難について論じますが、3本の論文は扇情的な世論誘導ではなく、社会と文学の現在を熾烈に問う批評の役割を果たそうとする問題意識の所産です。寄稿者たちは既存に発表した内容を多少補完して送ってくださいました。

「文学評論」欄には韓国文学の現場に対する繊細で鋭い批評的省察を見せる論文によって構成されました。ハム・ドンギュンはセウォル号惨事以後韓国文学の変化様相に注目しながら、真実が隠蔽される現実から逆説的に「棄却され、忘却されたものが自ら発火する」文学的現象を論じます。新鋭評論家のイ・ウンジの論文は、若い作家の作品に表れている記憶、忘却、回想行為の多様な局面が、生活に対する共通感覚とどのように接続するかを分析します。創批新人評論賞で登壇したキム・ヨソプは文学作品と歴史的現実との関係を根気強く探聞します。

「小説」欄には前号から始まったチョン・ソンテの長編連載が作家の事情で1回休むことになりました。その代わりに新鋭作家のヤン・ソンヒョン、イ・スンウン、イム・ヒョン、チョン・ヨンス、チェ・ウニョンと、創批新人小説賞を受賞したキム・スの作品が、現在活動している若い作家たちの多彩な色彩と個性を披露してくれます。また詩人11名と創批新人詩人賞を受賞したキム・ジユンの詩編も紙面を輝かせます。その他に批評文化の水準を高めるために、本誌が力を注いだ「文学フォーカス」、「作家スポットライト」及び「寸評」等の論文も今号を豊富にします。

今年萬海文学賞は残念ながら受賞作がなかったですが、申東曄文学賞は詩人のパク・ソランと小説家のキム・グミに与えられました。我が文学に活力を吹き込んでくれたお二方に読者とともにお祝いと激励のお言葉をお贈りします。なお、創批新人文学賞の各部門の当選者にもお祝い申し上げます。

非常に暑かった夏も去り、落ち着いて思考し、討論できる季節が近づいてきます。今号は厚い分量で読者の皆様を訪れます。秋号をめぐった皆様との真摯な対話がいつもより楽しみです。創批は読者の奥深い関心に励まされ、ここまで一号一号と歩んでくることができましたし、今後もそうさせていただきたいと思います。

訳:李正連(イ・ジョンヨン)