「2℃」と人類の未来: 技術楽観論批判を批判して

2017年 春号(通巻175号)

「2℃」と人類の未来
――技術楽観論批判を批判して――

安秉玉(アン・ビョンオク)
気候変化行動研究所所長、市民環境研究所所長。著書に『ある地球主義者の視線』、『白楽晴が大転換の道を問う:大きな積功のための専門家7人インタビュー』(共著)などがある。ahnbo21@hanmail.net

 

  1. 気候楽観主義の三つの分岐点

 

国の内外で展開される気候変化の論議を見てみると、多様な背景を持った楽観主義と出会うこととなる。その中で際立って注目を引くのは「疑いを売る商人たち」と呼ばれる気候懐疑論者たちの視角である。 1 アメリカのハートランド研究所(Heartland Institute)とカトー研究所(Cato Institute)など、懐疑論の拡散に先駆けした右派シンクタンクたちは、最近「気候楽観論者」に変身した。彼らはもう気候変化を否定しない。ただ「心配する必要はない」と言うだけである。彼らは地球温暖化の効果は陰性的フィードバック(negative feedback)によって相殺されるので、地球の気候は人間が噴き出す温室ガスに敏感に反応しないと主張する。地球が暑くなると、植物の生産性が増加して農業に新たな機会を提供するように、地球温暖化の便益は否定的な影響をずっと凌ぐということである。

二番目は「気候は常に変化してきたので気候変化を悲観的にのみ見なす必要はない」という歴史的相対主義である。この流れは今日の地球温暖化が人間の活動によってもたらされたという事実を否定しない。気候変化を防ぐために渾身の努力を注ぐべきだという主流の気候談論にも同意するほうである。そういう点で気候変化を否定する気候懐疑論とは明確に異なっている。だが、気候変化をむごい災難としてのみ見なそうとする視角は断じて拒否する。地球の歴史で気候が一定していたことはたったの一度もなかったし、「正常」的な気候というものは成立できぬ仮設にすぎないということである。中世中期の温暖期にグリーンランドは緑の草木で覆われたし、デンマークでは葡萄を栽培してワインを作って飲んだりもした。この際、バイキングたちはグリーンランドへ渡っていって、植民地の建設とともに全盛期を享受することができた。バイキングとグリーンランドの事例は、今日われわれが経験している地球温暖化の水準を相対化しようとする一部の歴史学者たちによって「人類の文明が花を咲かせた時期は寒冷期ではなく温暖期であった」という主張を裏付ける根拠として活用される。 2

三番目は気候変化は技術の革新を通じていくらでも制御できるという技術楽観論である。技術楽観論は気候変化を含め人類が直面したすべての挑戦は、技術の進歩を通じて克服できると主張する。代表的な人物はアメリカの経済学者で、自由市場環境決定論者であるジュリアン・サイモン(Julian Simon)である。1994年、彼は「現在、われわれはこれから引き続き増えていく人口に衣食住とエネルギーを提供する技術を図書館に持っている」と壮語した。最近は人類がビックデータ、モバイルアプリ、ハッカソン(hackathon)、 3事物インターネット、地球工学などをうまく活用すると、気候変化に充分立ち向かって戦えるという主張も出てきている状況である。 4

『創作と批評』2016年秋号に載せられた李必烈(イ・ピルリョル)教授の「気候変化、人工知能、そして資本主義」(以下、「気候変化」)は非常に論争的な文章である。「パリ協定」(2015年、パリで開かれた国連気候変化協約当事国総会で、地球の平均気温の上昇幅を摂氏2度よりずっと下へ、できるならば摂氏1.5度を越えないようにするという目標に合意)の2度目標の達成は不可能だという悲観論から出発しながらも、人口が減少し、科学技術が発達するので「温室ガスの排出は遅くとも21世紀の後半には減り始めるし、地球気温の上昇も止まるはず」(158頁)という一種の技術楽観論を繰り広げているからである。そして、パリ協定が掲げた目標は「2045年頃まで全世界の温室ガスの排出がゼロとならないと到達できないこと」(143頁)と断言する。現実的に避けられない「気候変化による気温の上昇を受け入れて、それに対する適応のために回復力を高めていけば、人類は2100年まで気候変化で迫った災難を破局にまでは迎えずに乗り越えられるはず」(159頁)という主張も繰り広げる。興味深いことは「急変する世界、適応できぬ気候総会」という2節のサブタイトルで現れるように、国際社会の気候変化論議に強い不信を示すという点である。20回余り開かれた気候総会では今世紀の100年間、人類社会が如何に変化するかはあまり考慮されなかったということが不信の根拠である。

しかし、はたしてそうなのか。気温の上昇を受け入れて、回復力を高めるだけで破局は免れ得るだろうか。気候変化論議に対する不信は気候科学に対する情報不足、そして科学と政治の関係に対する誤解から生じたものではなかろうか。

 

 

  1. 摂氏2度という目標と排出シナリオ

 

摂氏2度は1992年、国連気候変化協約が締結されて以来、国際政治の舞台で最もよく言及された単語であろう。2015年12月12日、パリ協定が妥結される前まで国際社会で合意された目標は、地球の平均気温の上昇幅を産業化以前に比べて摂氏2度以内に抑えるということであった。この目標を66%以上の確率で達成するためには、2050年まで温室ガスの排出量を2010年対比40~70%下げて、遅くとも21世紀末まで「炭素中立」を実現しなければならない。 5 炭素中立は温室ガスの排出量と山林などの吸収量が同じような水準で均衡を保つ状態を言うが、化石燃料のほとんどすべての退出が成されてこそ成立できる。

ところで、パリ協定にはこれよりもっと強力な目標が盛られた。21世紀末まで気温の上昇幅を摂氏2度より「ずっと」下に抑えて、できるならば1.5度を超えないようにするということである。1.5度目標の採択は海水面の上昇で国土を諦めなければならない危険に処した群小島嶼の国家らが、長い間「倫理的な防御線」として強力に要求してきた事項である。群小島嶼の国家の立場で2度という目標は、地図上で自分たちの消滅を既定事実化する残忍な目標として受け止められた。パリ総会では1.5度目標の採択に反対するサウジアラビアとベネズエラなど、産油国の抵抗が強かった。だが、大勢は早めに傾いていた。過去には実現の可能性が希薄だという理由でためらっていたヨーロッパ連合(EU)とアメリカなどが、会議の始めから群小島嶼国家に賛同しながら1.5度目標の採択に賛成したからである。

そしたら2度目標と1.5度目標との違いは何なのか。何よりも化石燃料から脱皮すべき時期が異なってくる。フランチスコ教皇とドイツのメルケル(A. Merkel)首相の気候変化諮問役を務めたポツダム気候変動研究所のハンス・ヨアヒム・シェルンフーバー(Hans Joachim Schellnhuber)教授は、1.5度目標を達成するためには化石燃料の退出時期が2050年頃に早められるしかないという意見を出した。より具体的な分析もある。2014年に発表された気候変化に関する政府間協議体(以下、IPCC)の第3実務グループの第5次評価報告書と、国連環境計画(UNEP)の「2014年排出量間隙報告書」(The Emissions Gap Report 2014)を分析した結果がそれである。この分析によると、1.5度目標を達成するためには2050年まで温室ガスの排出量を2010年対比70~95%下げて、2060~80年には排出量がゼロとなるべきであり、それ以後はマイナス排出を実現しなければならない。 6

ここでマイナス排出は大気から除去される二酸化炭素の量が、炭素排出源が噴き出す量よりもっと多い状態を意味する。パリ協定はIPCCにして摂氏1.5度上昇抑制を目標と設定した際、温室ガスを減らす経路を分析した特別報告書を2018年まで作成して提出するようにした。

「気候変化」は「温室ガスが今のような速度で排出されるならば、1.5度目標の到達は5年後、すでに不可能」となり、「2度目標も2045年頃まで全世界の温室ガス排出がゼロとならないと到達できないはず」(143頁)と主張する。その根拠として引用したものは、ドイツ科学政治財団のオリバー・ゲデン(Oliver Geden)がイギリスの日刊紙『ガーディアン』に寄稿した文章と、ドイツの週刊誌『シュピーゲル』オンライン版と行なったインタビューの内容である。 7

ゲデンはすでに2013年に2度目標を諦めるべきだというタイトルの文章を書いたことがある。 8 ところが、彼の文章は気候変化の専門家たちの間であまり注目されなかったことと見える。反応があったとしたら、「懐疑的環境主義者」というタイトルの本を書いて有名となったデンマークの統計学者、ビョルン・ロンボルグ(Bjorn Lomborg)が翌年同じタイトルの文章をアメリカの経済専門誌『フォーブス』に寄稿したことが全部である。 9 ゲデンの主張が反響を呼び起こせなかったのは、彼が気候モデル専門家ではなく、気候政策専門家であり、同僚の評価(peer review)を経た学術論文ではない言論寄稿文とインタビューを通じて自分の主張を繰り広げたためであると思われる。 10

ところが、2度目標の実現が不可能だという主張が説得力を持つためには、特定の研究者の寄稿文とインタビュー内容に依存したり、「気候変化を巨視的視角から研究する学者たちも指摘するところ」(144頁)と大雑把に述べるのではなく、関連の論議をより幅広く取り上げるべきであった。IPCCは1990年から5~7年の間隔で発行する報告書を通じて、気候変化の趨勢および原因の究明、気候変化による社会経済的影響、対応戦略に関する科学情報を提供してきた。興味深いことは報告書ごと核心主題とメッセージが異なるという点である。1990年に発行された第1次報告書の焦点は「地球が暑くなる」であり、1995年の第2次報告書の核心主題は「人間の責任である」であった。2001年と2007年に出た第3、4次報告書が「減らすべきである」というメッセージを入れたならば、2014年の第5次報告書の結論は「減らせる」であった。2度目標の実現が不可能だという論旨は、IPCC第5次報告書の結論と正面から背馳されるものである。

 

 

3. 「負担の共有」対「機会の共有」

 

ゲデンやロンボルグの言論寄稿文とは違って『ネイチャー』2014年10月号に論評の形で掲載されたアメリカカリフォルニア大学の研究者たちの論文は、気候変化の専門家たちの間で相当な反響を呼び起こした。 11 2頁分量の短いこの論文は「間違って設定された目標は政府が何もしないのに何かやっているように見えるようにする政治的効果がある」としながら、2度上昇抑制という単一の目標を廃棄する代わりに二酸化炭素の濃度、海に蓄えられた熱エネルギーの量、北極気温など人間が地球に加えるストレスをうまく示す複数の新しい指標を設定することを提案する。論文の著者たちが見るに、未来の気候展望に今使われている気候モデルは国家間の協力が即刻成されることと見なしたり、まだ開発されていない技術の広範囲な適用など、非現実的な仮定に基づいているので致命的な問題点を抱えている。「このような無謀な仮定は2度目標の達成が可能だと信じ込ませて、気候変化の適応の緊急性を感じさせないようにする結果をもたらす。」

この論文は発表されるや否や多くの反論に直面した。 12 IPCC第5次報告書は2度上昇を抑えるために必要な四つの条件を言及しながら、2度、さらには1.5度目標の達成は相変わらず可能だと分析する。ここで四つの条件はエネルギーの効率的な利用、低炭素または無炭素エネルギー利用の拡大、山林など炭素吸収源破壊の抑制、生活様式と行動の変化である。報告書が出した結論を要約するとこうである。温室ガスを減らす費用は年間GDP(国内総生産)成長率の0.04~0.14%で、世界経済が十分受け持てる水準である。減らす努力を遅らせるほど減らす費用は増えるし、失敗する確立は増加する。また、2度目標の達成のためには地球的次元でエネルギーシステムの転換が必要である。特に電力生産システムの根本的変化が必要であるが、人類はすでにこのような変化に必要な技術と財政能力を十分備えている。気候変化の対応が足踏みの状態に留まっているのは、「政治的意志の不足」のためであって、技術やお金がないからではない。IPCC第5次報告書の視角から見ると、先の『ネイチャー』の論文は政治的無気力と2度目標の技術的・経済的実行の不可能性を混同していることとして見なされる。

最近の気候変化の論議では気候変化の対応の「同伴便益」(co-benefits)に注目する傾向がはっきりと現れている。同伴便益は気候変化の対応が保健、雇用、福祉、経済、生態系などに及ぼす肯定的な効果である。過去には気候変化の対応を、経済に負担ばかり与えることとして認識したので、個別の国家がこの負担を如何に分かち合うかとを決定する「負担共有」(burden sharing)が焦眉の関心事であった。しかし、今は「機会共有」(opportunity sharing)がより注目されている。去年11月、『エコノミスト』はトランプの当選の便りが飛んできた第22次国連気候変化協約当事国総会(COP22)が閉幕した後、「アメリカが参与するか否かに関わらず、自己利益(self-interest)が地球温暖化に向かい合う闘争を維持させるだろう」と展望した。 13

同じ時期に国連開発計画(UNDP)が発表した報告書も同伴便益の重要性を強調していて注目される。 14 この報告書は1.5度目標の達成のために努力した際と、今の政策をそのまま維持した場合の便益とを比較したが、その結果は驚くに値する。一つ目、2040年頃からドイツ、日本、アメリカなど主な経済国は気候変化による損失で長期間の景気沈滞に苛まれるだろう。1.5度シナリオはこのような事態が防げる唯一の道である。二つ目、1.5度の上昇を抑制する場合、2050年の世界総生産は何もしなかった時より、約10%(12兆ドル)上昇することと分析される。このような便益は中国を含めた個別の国家でも同じく現れるだろう。三つ目、1.5度目標を達成するため再生エネルギーの利用を早く拡大すると、2030年頃はエネルギー部門で職場が68%位増えるだろう。職場の増加は特に開発途上国で際立つことと予想される。四つ目、地球の平均気温上昇幅が産業化以前に比べて摂氏2度以上となると、珊瑚礁の99%が破壊されるだろう。だが、1.5度目標を達成すると、無くなる危険に処した珊瑚礁の10%以上を救うことができる。五つ目、グリーンランドの氷床がすべて解けると、海水面は7メートル以上上昇するだろう。地球の平均気温が摂氏1.6度上がると、氷床の減少は非可逆的に進行される可能性が高い。従って、1.5度目標は世界の主な沿岸都市の浸水を防ぐ最後の防御線として認識されるべきである。

 

 

  1. 科学と政治の気候臨界点

 

2度目標、ひいては1.5度目標が諦められない理由はまたある。2度と1.5度は危険の評価を通じて設定された気候変化の臨界点(tipping point)である。気候変化は非常に遅い速度で進行されるが、臨界点を超えると急に破局がやってこれる。敷居をまたぐと、戻ってくることはほとんど不可能である。気候が安定を取り戻すまでかかる時間は、数千年または数万年となることもありうる。従って臨界点の下に留まるために努力することは、実現可能性の可否を離れて、地球の構成員たちが当然すべき義務である。同じ脈絡で2度目標は地球温暖化の陽性的フィードバッグ(positive feedback)を防ぐためにも必ず達成されるべきである。陽性的フィードバッグは小さな変化がもう少し大きな変化を呼び起こし、その変化が再びより大きな変化を呼び起こすふうに、変化が次第に加速される様相を言う。

北極と南極を始め全世界の氷河と万年雪は早く減少しつつある。真っ白い雪と氷が覆われているときは、地表面に到達した日差しの反射率(albedo)が高くて相対的に少ない量のエネルギーが地表面に吸収される。だが、地球の平均気温が2度以上上がって、氷と雪が解けて浅黒い土と青い海が現れると状況は変わってくる。より多い日差しを吸収するので、周りの氷と雪をもっと早い速度で溶かすこととなるのである。 15

シベリアを始め永久凍土層(permafrost)には1.33~1.58兆トンに達する有機炭素が埋葬されている。 16 温暖化で地表面が解けると、草が生え、農事ができるという利点が生じる。問題は地表面のすぐ下の地層に閉じ込められていたメタンが大気へ放出される場合である。メタンは今も少しずつ放出されているが、地球の平均気温が2度以上上昇すると、放出される量は収拾できなくなるほど増加することとなる。科学者たちは今のように気温が上昇すると、今世紀内にメタン埋葬量の10パーセントほどが大気へ放出されることと推算している。メタンは大気に滞留する時間は短いが、温暖化の効果は二酸化炭素より20倍以上強力な気体である。

海でも予想外の変化にぶつかりうる。われわれは広島に投下された原子爆弾40万個が爆発した時と匹敵するエネルギーを毎日大気へ放出している。 17

このような莫大なエネルギーが大気に流入されているにも関わらず気温が急激に上昇しないのは、専ら海のおかげである。科学者たちは人間の活動で放出されるエネルギーの90%以上を海が吸収することと見なす。問題は海の水温が増加しながら、熱エネルギーの吸収能力が下がりうるという点である。地球の平均気温が引き続き上昇すると、海が熱エネルギーの吸収を止めることとなる可能性がある。

これまで見てみた代表的な事例の他にも、地域次元で急激な気候崩壊をもたらしてくる潜在的な臨界点は多数存在する。気候モデルを活用した最近の研究は地球上に41個の気候臨界点が存在するという事実を明らかにしたが、ほとんど海、海氷、積雪、永久凍土層、アマゾン熱帯雨林などと密接な関連がある。これらの中で相当数はいつどこから始まるか正確な予測が難しいが、2度臨界点に到達する前に破局に達する可能性が高いことと分析される。このような研究結果は気候変化の時代に絶対的な安全を保障する限界線とは存在しないという事実を示す。そのような点で「気候変化による気温の上昇を受け入れよう」という提案は、人間の統制範囲を脱して増幅される地球温暖化の「陽性的フィードバッグ」を過小評価したことから始められたものである。

「気候変化」は国際社会が「20年以上持続してきた協商の正当性を確保し、地球的問題解決のために責任を果たしていることを見せるため、実現不可能であってもこの目標を固執して」(144頁)いると主張する。しかし、この主張もまた気候談論の形成過程で定立された科学と政治の関係に対する理解が足りないところによるものと思われる。気候談論で2度上昇の抑制は「目標」でありながら、同時に科学的「事実」であり、「義務」である。2度目標は科学研究の結果物であるが、定量的な性格の科学言語だけでは正確な解釈が難しい側面がある。例えば、飲酒運転を考えてみよう。運転者たちは血中アルコール濃度が0.05%以上となると、行政処分と刑事処罰を受けることになる。だが、0.05%はこの濃度を超えると自動的に交通事故が発生するという意味で設定されたわけではない。ここで重要なことはこの数値を超えると交通事故を誘発する確立が非常に高くなるという経験から出た合理性である。気候変化にも同じ論理が適用できる。2度目標は破局が来るか否かを決定する無条件的な「定言命令」ではなく、危険の発生可能性を捉えるための一種のリトマス試験紙として認識されるべきだ。

科学者たちは政策決定者たちに複雑な気候科学の結果をすべて説明することはできない。そうする時間が許されないからでもあるが、気候科学に内在した複雑性のせいがより大きい。そこで科学者たちは人々が理解しやすいながらも多様な現象が総合できる指標を選ぶこととなる。「地球の平均気温」は気候変化の臨界点を最もよく示す代表選手であって、科学者たちが「合意(先発)」した結果である。よく知られているように、気候システムと気候モデルには少なくない不確実性が存在する。不確実性は気候変化の固有な属性である。未来の気候を百パーセント正確に予測できる方法はまだない。そこで国際社会の気候ガバナンスには科学的根拠と政治的合意、両方とも必要である。2度目標が「科学の目標」でありながら、同時に197個当事国が合意に到達するための「政治的目標」であるわけがここにある。

 

 

  1. 人口と人工知能:セイレンの誘惑

 

「気候変化」は地面の3分の2位を長期人口展望と太陽エネルギー・デジタル時代の技術に割愛する。その理由は「太陽エネルギーとデジタル技術の発達、効率的なエネルギーの利用、人口の変化で温室ガスの排出は遅くとも21世紀後半には減り始め、地球気温の上昇も止まるだろう」という文章の結論を裏付けるためのものと思われる。人口と技術が未来の気候にどれほど影響を及ぼすかに対しては検討してみなければならないが、その前に指摘しておくことがある。気候シナリオが「現在進行中の急速な技術発達と人口変化をあまり考慮しない」(158頁)という主張は事実ではないということである。

IPCC第4次報告書に適用されたシナリオは、SRES(Special Report on Emission Scenarios)である。SRESは人口統計的・経済的・技術的変化の要因を反映するが、予想される二酸化炭素の排出量によって四つのシナリオ(A1, A2, B1, B2)に区分される。例えば、A1シナリオは世界経済の非常に急速な成長、21世紀半ばに到達する人口の頂点、より効率的な技術の急速な導入などを仮定する。反面、A2シナリオは人口増加率が高く、経済成長と技術変化は遅い、非常に異質的な世界を述べている。 18

「気候変化」は人口増加率と合計出産率の減少傾向などを列挙してから、「2100年から人口が90億~100億で停滞したり持続的に減少するだろうという予測は、気候変化の予測よりむしろもっと信頼に値する」としながら、「気候変化の論議にも長期的な人口変化の展望がまともに反映されるべきだ」(148頁)と主張する。気候変化シナリオで人口が経済および技術と共に重要な変数として取り扱われてきたということは、先述した通りである。従って、人口変化が炭素排出と資源利用にどれほど影響を及ぼすかが争点として取り扱われるべきである。

最近の研究によると、人間が気候と地球生態系に加えている圧力を減らす方法の中で、人口増加を抑えることはあまり役に立たない。2014年、オーストラリアアデレード大学の研究鎮は、人口成長と関わる多様な仮想シナリオをモデルに適用して、人口変化の影響力を分析した。彼らが使ったシナリオには家族計画のような穏健な接近だけでなく、一つの家族当たり子供一人の出産だけ許容する厳格な法的規制を適用したり、食料不足と自然災害などで数十億名の死亡者が発生することのような非常に極端的な仮定も含まれている。分析の結果は人口が未来の地球環境に決定的な変数だと信じてきた人々には非常に衝撃的なものであった。極端的で非現実的なシナリオの場合にのみ、人口変数が炭素排出と資源利用に実質的な影響が及ぼせることとして現れたためである。 19

早く増加している人口はいつかは減少し始めるだろう。人口変化は未来の気候にある程度影響を及ぼすであろうが、人口が減少してもそのことが自動的に温室ガスの排出量減少を保障してくれるわけではない。人口変化よりもっと重要なことは資源およびエネルギーの利用方式、経済構造、社会組織の全面的な変化だという点を認識する必要がある。

「気候変化」が人口変化よりもっと重要に考えることは、太陽エネルギーとデジタル技術である。「新しい時代にはすべてのエネルギーが太陽エネルギーに基づいた再生可能エネルギー源から得られるし、このエネルギーを利用した生産、通信、輸送、サービスはすべてデジタル技術によって支配されるだろう」(149~50頁)という主張には異論の余地がない。電気貯蔵技術と結合した太陽光発電、電気自動車の急速な普及、人工知能、ロボット、事物インターネット、3Dプリンティング技術の拡散が以前の情報通信革命とは質的に異なる次元のものだという点にも同意できる。

だが、人工知能時代の技術が人間に幸せをもたらしてくるかとは別に、気候変化時代のメシアとなれるかはもう少し見守るべきである。幸いに第4次産業革命は不平等の深化、労働の終末などに対する憂慮にも関わらず、最も生態的な産業革命となるはずだという展望が多い。自律走行自動車は二酸化炭素を始め、大気汚染物質の排出量を画期的に下げられる潜在力を持っている。人工知能システムは再活用に必要なゴミの選別を瞬く間にやってのけ、電力送電と配電を一寸の誤差もなしに正確で効率的に成し遂げるだろう。技術の飛躍的な発展がそれに相応する規模の社会的変化をもたらしてくるという事実を否認することはできない。

しかし、技術の進歩が危機脱出の保証小切手ではない。イギリスの経済学者であるウィリアム・ジェヴォンズ(William S. Jevons)の話のように、効率が増加するとエネルギーの消費が下がると考えることはまったくの錯覚である。むしろ消費が増加することもありうる。過去の数百年間、多様な分野で技術が飛躍的に発展したが、温室ガスの排出を含めて地球に加える環境の負荷は下がらなかった。技術の使われ方、さらに技術発展の方向と速度は社会的要因の影響のもとに置かれている。新しい技術変化が現れる際、その技術以上に重要なことは、社会がそれを受け入れて生産および生活方式に如何に活用するかである。従ってわれわれは人口が減少し、技術が発展することを待つより、資源およびエネルギーの利用方式と経済および社会構造の革新に全力投球すべきである。

家に火事が起こった際は火から消すべきである。消防車が来ることばかりを待つのは愚かなまねだ。火を消すにどれほど役に立つかわからないが、バケツであれ水がめであれ、渾身の力を尽くして水をぶっかけるべきだ。それに火が燃える地球は空っぽの家ではない。その中にまだ人々が閉じ込められているならば、火を消すことを諦めるわけにはいかない。今、走ってきている消防車が火災鎮圧に十分なほどの人力と設備を備えているかさえわからなければ、われわれは一層わが世代に許されたゴールデンタイムを無駄づかいしてはならない。

海のニンフであるセイレンたちは、船が通り過ぎるごと歌を歌った。この歌には聞く者をこの上なく魅惑させる魔力が込められていた。それでその歌声を聴いた船員たちは深い海へ飛び込もうとする不可抗力的な衝動を感じることとなる。われわれが乗った船は今セイレンが住んでいる海辺を通り過ぎる途中である。無事に通過するためには、オデュッセウスのように体をマストにしっかり縛るべきだ。人口減少と技術進歩の甘い誘惑を振り切って生き方を転換しない限り、人類に明るい未来を期待することは難しいだろう。

(翻訳:辛承模)

Notes:

  1. Naomi Oreskes and Erik Conway, Merchants of Doubt: How a Handful of Scientists Obscured the Truth on Issues from Tobacco Smoke to Global Warming, Bloomsbury Press 2011; 韓国語翻訳本として『疑惑を売ります』、ユ・ガンウン訳、ミジブックス、2012。
  2. ヴォルフガング・べーリンガー、『気候の文化史』、アンビョンオク・イウンソン訳、共感in、2010。
  3. 「ハッカ」と「マラソン」の合成語。24~48時間内外の短い時間の間、マラソンをするように休まずアイデアと思考を企画し、プログラミングする過程を経て試製品(prototype)を作り出すイベントまたは競演を意味する。
  4. Lyndsey Gilpin, “10 ways technology is fighting climate change,” TechRepublic 2014.8.6.
  5. 気候変化に関する政府間協議体(IPCC)の第5次報告書(IPCC AR5 WGIII chapter 6 section 3.1.3)、2014。
  6. Joeri Rogelj, Michiel Schaeffer and Bill Hare, “Timetables for zero emissions and 2015 emissions reductions: State of the Science for the ADP agreement,” Climate Analytics Briefing Papers 2015.

  7. Oliver Geden, “Paris climate deal: the trouble with targetism,” The Guardian 2015.12.14; Axel Bojanowski, “Alle Staaten sollten auf null CO2-Emissionen kommen,” Spiegel Online 2016.7.5.

  8. Oliver Geden, “It’s Time to Give Up the 2 Degree Target,” Spiegel Online 2013.6.7.
  9. Bjorn Lomborg, “It’s Time to Give Up the 2 Degree Target,” Forbes 2014.10.24.
  10. ゲデンは最近、気候変化の対応目標を地球の平均気温から「純ゼロ排出」(net zero emissions)へと変更することを提案する論文を発表したが、この論文もまた大きな反響を呼び起こしはしなかった。Oliver Geden, “An actionable climate target,” Nature Geoscience 9 (2016), 340~42頁.
  11. David G. Victor and Charles F. Kennel, “Climate policy: Ditch the 2°C warming goal,” Nature 514 (2014), 30~31頁.
  12. 即刻的な反論は、Stefan Rahmstorf, “Limiting global warming to 2°C—why Victor and Kennel are wrong+update,” RealClimate 2014.10.1; Joe Romm, “2°C Or Not 2°C: Why We Must Not Ditch Scientific Reality In Climate Policy,” ThinkProgress 2014.10.1を参照。
  13. “Climate change in the era of Trump,” The Economist 2016.11.26.
  14. UNDP, “Pursuing the 1.5°C Limit: Benefits & Opportunities,” 2016 Low Carbon Monitor.
  15. Kristina Pistone, Ian Eisenman, and V. Ramanathan, “Observational determination of albedo decrease caused by vanishing Arctic sea ice,” Proceedings of the National Academy of Sciences vol. 111, no. 9 (2014), 3322~26頁.
  16. E. A. G. Schuur et al., “Climate change and the permafrost carbon feedback,” Nature  520 (2015), 171~79頁.
  17. Joe Romm, “Earth’s Rate Of Global Warming Is 400,000 Hiroshima Bombs A Day,” ThinkProgress 2013.12.22.

  18. SRESはIPCC第5次報告書で人間の活動が大気に及ぼす輻射量で温室ガスの濃度を決める代表濃度経路(RCP)シナリオに取って代わった。
  19. Corey J. A. Bradshaw and Barry W. Brook, “Human population reduction is not a quick fix for environmental problems,” Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America vol. 111, no. 46 (2014), 16610~15.

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韓半島の軍事危機の構造と出路

2016年 冬号(通卷174号)

韓半島の軍事危機の構造と出路

李承煥(イ․スンファン) 市民平和フォーラム共同代表。民族和解・協力汎国民協議会執行委員長、6・15共同宣言実践南側委員会執行委員長などを歴任。共著に『ポスト統一、民族的連帯を夢見る』『変革的中道論』などがある。
sknkok@paran.com

 

2016年の韓国は一種の「戦争不感症社会」のようである。「核先制攻撃」など様々な軍事的脅しの言動が横行していても政府はもちろん、政治社会や市民社会全般にこれを制御するメカニズムは特に作動していない。一方で、北の第4次、第5次核実験と開城工業団地の閉鎖、韓米両国のサード(THAAD:高高度ミサイル防御体系)の配置決定など、韓半島の軍事危機はしだいに深化している。

韓半島の軍事危機は一時的なものではなく極めて構造化されていて、東アジア全般の秩序変動の過程と密着しており、韓半島のみの問題として取りくむと解法を見いだしがたい。これは何よりも、北朝鮮が東アジア秩序の現状変更を追求する主要な行為者の一つだからである。北朝鮮の非核化がしだいに非現実的な目標になっている事情とともに、米国が東アジア中心にいわゆる「アジア回帰(Pivot to Asia)」を本格化させている事情とも連結している。

軍事危機を深化させるアジア再均衡政策

2011年、オバマ政権が新たな世界戦略として野心的に明示した米国のアジア回帰あるいは再均衡政策は、「米国の安保能力に依存している世界経済に安定性を提供する」という名分の下に、世界経済の中心に浮上中のアジア・太平洋地域に米国の軍事力を増強して配置し、これを土台に米国がグローバル・リーダーシップを強化していこうとする政策である。

しかし、米国のアジア再均衡政策はトランプ(D. Trump)現象で現れたように、孤立主義が広がる米国内の政治事情と、アジアにおける軍事力増強を支える国防予算の問題、そして「環太平洋経済パートナーシップ」(TPP)の米議会批准の挫折危機などにより、政策の持続性が議論を巻き起こし続けてきた。その上、軍事力再配置の名分である中国の軍事的脅威に対する評価もまた有利ではなかった。米国のアジア再均衡政策の推進後、中国は挑発的な軍事行動を自制する一方、米国はもちろん韓国など周辺国との高官レベルの軍事交流を強化しはじめている。もし日本が積極的に呼応せずに、北の核問題が浮上しなかったならば、オバマ政権の再均衡戦略はもはや維持しがたかったかもしれない。

いわゆる「北の脅威」は、中国の軍事的脅威に代わって米国のアジア再均衡政策に正当性を維持させる新たな資産になった。米国は再均衡戦略を公式に宣言した2011年とは異なり、北朝鮮の第三次核実験後の2013年から北の核脅威を重大問題として提起した。これを通じ、①日本および韓国との緊密かつ拡大した協力の推進、②北の脅威に対する中国の協力と共助、③米国本土と同盟国の防衛に対する確認(拡張抑止の提供)などを対北政策の原則として強調しはじめた。これは米国が日米間および日韓米間の軍事協力を強化し、北核問題をかざして中国を圧迫する政策を本格的に推進しようという意志である。もちろんその前提として、北朝鮮の核脅威がレッドラインを超えないかぎり、米国が北核問題を積極的に解決する代わりに「戦略的忍耐」を維持するのである。

特に米国は北朝鮮への制裁を中国の責任として押し付け、これを再均衡政策推進のテコとして用いる「北核の中国責任論」を積極的に掲げだした。こうした中国責任論は、米国が北朝鮮の核を名分にして東アジアに軍事力を前方配置するだけでなく、対北政策失敗の責任を中国に押し付ける一石二鳥の効果を生んでいる。代表的な事例が韓半島のサード配置決定である。これは中国が北を核放棄に引き込むレベルの決定的制裁を加えなければ、韓半島のサード配置など中国を狙った軍事的な圧迫と封鎖を甘受せよという意味である。 1 これに対して中国は、北核問題は根本的に米国の責任だと強く反発している。もちろん、北核問題を再均衡政策推進の戦略的な資産とみなすこうした接近は、本質的に北核問題を解決するよりもむしろ北核能力の高度化を放置し、韓半島の軍事的均衡を全面的に米国の核拡散抑止に依存させる結果をもたらさざるを得ない。

また、日本の右翼勢力は米国の再均衡戦略が日本を必要とする点を明確に認めさせ、これを日本の「普通国家化」(=戦争国家化)の機会として積極的に活用している。米国は再均衡政策の推進に必要な国防予算を満たす対案として、「日本を同盟の中心軸(underpin)と規定し、日米両国間の軍事力の再編成とミサイル防御協力を強化する」、いわゆる「同盟の役割の再調整」を提起している。このため日米両国は、2013年10月日本の「集団的自衛権」の保障に合意し、2015年には新ガイドラインの制定を通じて日米共同で武力対応する地理的範囲を「日本周辺」に制限した既存のガイドラインの内容を削除し、自衛隊の海外進出の制限を完全に撤廃して米国がアジアで軍事力を増強する際に、日本を中心軸として引き入れる計画を事実上完成させた。

こうした背景の下、日本の安倍政権は日米共同のミサイル防御体制の構築と沖縄の米軍基地の新設および拡張など日米の軍事協力を強化しながら、集団的自衛権の行使を可能にする安保法の処理強行と戦後東アジア平和の制度的装置の一つだった平和憲法の改定を積極的に推進しているのである。

米国はこうした日米協力体制に韓国も編入させ、東アジア版の軍事同盟体制を構築しようとする努力も本格化させている。便法として推進された2014年末の「韓日米の軍事情報共有了解覚書(MOU)」の締結、 2日本とはすでに連結している米軍の戦術データ連結体系(Link16)の韓国導入、核空母ジョージ・ワシントン号が出動する事実上の合同軍事訓練である年例の韓日米の海上救助訓練、リムパック(RIMPAC)の一環として2016年から実施された韓日米ミサイル合同探知・追跡訓練などは日米軍事同盟に韓国を編入させる核心的証左である。

従って現時点で、米国の再均衡政策は東アジアと韓半島で北核問題の平和的解決に失敗し、日本の右翼の軍事的拡大の機会のみを招いたと言っても過言ではない。特に韓半島の場合、米国の再均衡戦略は朝鮮戦争の終結など韓半島の平和体制の樹立には何のイニシアティブも行使できず、むしろサード配置など米国のミサイル防御体制の下部に編入されるなど、韓米同盟の日米軍事同盟への編入、対中国海上(封鎖)協力の強化要求などに表れている。これは21世紀になって韓国政府がとってきた「経済は中国、政治・安保は米国」というそれなりの現状維持の外交路線をも覆し、日本の軍事大国化と核保有国たる北朝鮮という二大脅威の最前線に韓半島を露出させる結果を招いている。

こうした理由により、韓国と日本の市民運動家は米国の再均衡政策がアジアの平和を破壊し、「もはや米国の覇権を維持するためにアジアの民衆が犠牲になる歴史が繰り返されてはならない」 3と宣言する。また中国でも、「(東アジアにおける)脅威は北朝鮮から来るのではなく米国や日本から来ており、これこそ中国などのアジア国家が極めて強く反対し、対応すべき問題だと認識している」 4という評価が生じている。

北の「統一大戦」主張と核戦争拡大戦略

米国が北の脅威を強調して中国を含む国際的な対北制裁を強化する一方で、北の金正恩政権もまた対米交渉戦略で変化を示している。北朝鮮は「不滅の核強大国の建設」を掲げて核抑止力の確保に邁進しながら、中国まで加わる非核化の対話は避ける姿勢をみせている。これは議題を細かく分けて争点を段階化するサラミ(salami)式の短期交渉の代わりに、「北の核保有を前提とする東アジア秩序」を目標にして核能力の強化に基づく米国との中・長期的な談判の推進へと交渉戦略を変更させたという意味である。

北朝鮮の交渉戦略がこのように変わったのは、核先制攻撃の対象に北を含めたブッシュ政権の2002年核テーゼ報告書(NPR)についで、オバマ政権で作成された2010年核テーゼ報告書でも北を核兵器非使用対象国から除いたことからくる、深い対米不信が第一次的な原因だといえる。2014年末以後、北が掲げた一連の対米提案がオバマ政権によって黙殺されたのは 5北の交渉態度を一層硬化させた。その上、核・経済の並進路線の宣布後、初めて「非核化」を公式に言及した北朝鮮の「7・6提案」 6に対し、米国は人権弾圧と関連した金正恩制裁措置を宣布して応じた。それから二カ月後、北は第五次核実験を強行した。

こうした一連の過程をふり返れば、北朝鮮は今後も「核能力の強化に邁進─米国と中・長期的に談判」という戦略を一層固守するだろう。これは、ケリー(J. Kerry) 国務長官が9月18日韓米日外相会談で非核化対話と核凍結を言及したのに対し、北朝鮮は「我々の核武装の強化措置に対して挑発とか、無謀な行動とか誹謗しながら、破綻した非核化対話の念仏をまたも唱えている」と反応したことから確認できる。 7米国のみならず北朝鮮によって交渉の敷居は一層高められている。

交渉戦略の変化とともに北の核戦略もより攻撃的に変化している。これに関連して注目すべき北の主張は、いわゆる「統一大戦」宣言である。第七回労働党大会の報告で「非平和的方式の統一」に言及した後、金正恩政権は相次いで統一大戦を強調している。「敵どもがわが国の尊厳と権威を害しようと少しでも動いたなら、断固かつ強力な核先制打撃が加えられるはず」 8であり、「祖国統一大戦にもつながる千金のような機会は我々がまず選択するはず」だとか、「米帝とその追従勢力が『体制崩壊』や『平壌席巻』を狙った『斬首作戦』に突入しようとするささいな兆候でもみせれば、それによって招来するのは無慈悲な核先制攻撃だけ」 9という主張などがそれである。

こうした言及で確認されるのは、北朝鮮が主張する統一大戦が相手の在来式攻撃の脅威に核で対応する(先制攻撃を含む)「非対称拡戦型」の核戦略を意味するという点である。 10 もちろん北朝鮮は「第七回党大会決定書」において、「責任ある核保有国として侵略的な敵対勢力が核によって我々の自主権を侵害しない限り、先に核兵器を使用しないはず」だと宣言しているが、北が主張する「核の先制不使用」の原則は韓米の先制核攻撃演習を核で自主権を侵害する侵略的な敵対行為と想定しているので、事実上米韓両国には適用されない。

また北朝鮮は、自らの核体制について「核弾道で一杯にした戦略ロケットとわが威力ある戦略潜水艦が待機状態に入っていた」とし、核兵器の実戦配置と常時の発射待機状態を強調している。仮にこれを事実と認めたとしても、現在の北朝鮮の核能力レベルが完璧な第二次攻撃能力を確保したとはみなしがたい。ただ、北の核弾道の軽量化および発射手段の発展は予想を超える相当なレベルに達したとみられ、8月24日北朝鮮のSLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)実験の成功と、9月20日の停止衛星運搬ロケット用のエンジンの地上噴出実験の成功は相当な衝撃を与えた。

核戦争拡大戦略は、「在来式戦力の弱み」と「完璧な第二次核攻撃能力の不十分さ」という現実的な条件の下で選択される。これは韓半島で北朝鮮は核を発展させ、米韓は先制攻撃と潜水攻撃を含めた在来式の兵器を発展させる作用─反作用の悪循環がこの数年かけて進んできた結果である。 11 こうした状況に対する北の回答が、まさに核先制攻撃を含む非対称拡戦型の「統一大戦」宣言であるわけだ。その上北朝鮮は、イラク戦争とリビア事態などを通じて核抑止力保有の重要性をあまりにも良くわかっている。従って、核戦争拡大戦略は極めて危険かつ非合理的であるが、北朝鮮の立場では「他の選択の余地がない」戦略だと言える(いわゆる合理的非合理性 rational irrationality)。 12 そして、北はこの戦略がもつ危険性のために核の第二次攻撃能力を備える時まで、米韓の先制攻撃と斬首作戦の脅威から時間を稼ぎうると判断しているのである。北朝鮮が「統一大戦」を繰り返し強調するのは、こうした意味と脈絡にある。

このように北朝鮮は、米国の再均衡戦略がつくりだした犠牲の山羊であり、同時に米中競争と米国の戦略的忍耐を滋養分にして「核保有を前提とする東アジア秩序の再編」を追求する二重的地位を有している。つまり、北朝鮮は米国の核脅威の下にありながら、同時に米国の再均衡戦略と日本の再武装の正当性を強化し、さらに韓半島の軍事危機を深化させる原因の提供者でもあるのだ。

戦争の脅威を高める韓半島のサード配置

米国の再均衡戦略と北朝鮮の核戦争拡大戦略が交差し、深化している韓半島の軍事危機は米韓両政府のサード配置の決定により一層増大している。韓半島のサード配置は米韓が北の核保有を実質的に認め、それへの備えを本格化させたという意味である。サード配置の意味は複合的だが、最も重要な点はアジア再均衡のために「戦略的忍耐」または「対話と挑発の悪循環」の断絶を名分にし、北の核能力の強化を放置してきたことによる対北政策の失敗の結果を韓国民の血税と資産を投入するサード配置によって満たそうという意志である。

サード配置の決定後、北朝鮮は「サードは公然とわが共和国を狙っているだけに、わが軍隊の視野から絶対に免れえない」として星州と浦項、蔚山、釜山を照準にしたミサイル実験を強行し、中国とロシアも星州のサードを狙った軍事力の再配置を公言している。また、「サードは我々の自衛的な権利行使をより正当化」 13するだろうという北の主張通り、北朝鮮はサード配置の発表後、第五次核実験を断行するなど核とミサイル能力の強化に憚りなく邁進している。

問題は、韓半島で展開される核軍備競争は戦争の危険度と比例関係にある点である。何よりも北朝鮮が自らの核能力の強化に比例し、韓半島の停戦体制という現状を変更するための在来式の軍事脅威をしだいに強化しているのは明らかである。その上、韓米と北朝鮮が公然と相手に対する核先制攻撃を公言している条件を勘案すれば、サード配置は局地的紛争を核の全面戦争へと発展させる雷管にもなりうる。 14

さらに憂慮されるのは、サード配置が北の核問題と関連して交渉と制裁だけではなく、軍事オプションの比重の増大という合意を含んでいる点である。サードは基本的に先制攻撃後、相手の第二次ミサイル攻撃を防御する概念の兵器体系である。北朝鮮専門家のステファン・ハガード(Stephan Haggard)は、米国の「次期政権では軍事的対案に対するより解放された討論が行なわれるべきだろう。米国軍部はすでに北を核保有国として扱いはじめた。サード体系を展開するのもこれと無縁ではない」と指摘した。 15 つまり、韓半島のサード配置は米国が韓半島で先制攻撃という軍事的選択をより積極的に考えるようになったという意味である。

実際、対北先制攻撃は米国のアジア再均衡政策の宣言後、韓半島問題に対する選択肢の一つとして2012年から実質的な準備をしてきたのである。2012年、韓米はウルチ・フリーダム・ガーディアン(UFG)韓米合同軍事訓練から既存の防御的な軍事戦略の代わりに「先制的自衛権」という名分の下、攻撃的な「抑止戦略」を適用した対北先制攻撃訓練を開始した。「全面戦争の兆しが明確な場合、国際法的な論争があるとしても」先制攻撃に出るべきだというのである。 16

2012年以後、毎年春と夏に展開されるキー・リゾルブ(Key Resolve)訓練とUFG訓練は米国の核戦略資源を動員する先制攻撃訓練を含めている。特に今年は、米国の特殊部隊の内陸浸透訓練(事実上の「斬首作戦」)であるテーク・ナイフ

(Teak Knife)訓練を異例的に公開し、核空母ロナルド・レーガンを動員した「不屈の意志」(Invincible Spirit)という名の空母強襲訓練、そして複数国の合同空軍訓練レッド・フラッグ(Red Flag)に韓国空軍が参加し、事実上の韓・米・日・英合同の対北先制攻撃訓練も実施された。これに加え、朴槿恵政権は金正恩除去作戦を実施する特殊部隊の運用計画とともに、ミサイル精密攻撃および特殊作戦部隊の動員により「平壌の指導層をなくす」大量報復(KMPR)計画の推進を発表した。また、米国の冷静な拒否にもかかわらず、朴槿恵政権が強く希望している米国の戦略兵器の「韓半島への常時循環配置」は基本的に常時の対北核先制攻撃態勢を構築しようとする試みである。結局、サード配置の決定により、韓半島は「先制攻撃と相手の第二次攻撃防御」という形態の先制攻撃中心の軍事力体制をしだいに完成させているのである。

11月4日駐韓米軍司令官は今後8~10月以内にサード配置を完了させると発表し、これに対して中国もまた「決然たる反対」の意を表明した。「二年以内に北朝鮮は崩壊するはず」という呪術的予言に囚われた朴槿恵政権の国政運営能力の喪失は、一方で外交・国防および南北関係における非正常と弊害を正す機会になるだろうが、短期的には米韓軍事協力など同盟問題の処理で朴槿恵政権を無視する米国の一方通行が強化されるだろう。速戦即決式のサード配置の強行、「日韓軍事情報保護協定」(GSOMIA)論議の再開はそうした事例である。 17

韓半島の軍事危機の解消のために

再均衡という名の米国の軍事力の再配置と金正恩政権の核戦争拡大戦略が朴槿恵政権の北朝鮮崩壊への「呪術的執着」とつき合せた条件下では、韓半島の軍事危機は短期間に解消されるどころか、むしろ激化する可能性が高い。

もちろん南と北、米国の現在の条件を考慮する時、現実的に簡単なことではないが、韓半島の危機を解決しうる近道がなくはない。南北関係と韓半島の状況を膠着させている核心的問題、つまり「相互敵対行為の凍結問題」に直ちに近づくことである。北朝鮮の核とミサイル開発が米韓両国に最も重大な脅威ならば、北朝鮮では核を動員した米韓合同軍事訓練が最大の脅威である。北朝鮮は米韓両国の対朝鮮敵視政策の基本表現である「大規模な合同軍事演習の強行と核攻撃手段の南朝鮮への搬入」が根絶されない限り、断固として「我々の無限大の核抑止力がしだいに強化され」 18るはずだと主張している。

韓米合同軍事訓練の暫定的な中断・縮小と北朝鮮の核・ミサイル開発の中断を取り引きする、「最小限の」相互脅威の減少(Mutual Threat Reduction)努力の実現だけが、現在では視界不明の韓半島情勢を対話と交渉の平和的な解決局面へと進入させうる最も確実な方策である。 19 中国が提案する「韓半島非核化と平和体制の同時並行」議題も、最小限の相互脅威の減少合意を先行させなければ、現在の北朝鮮の態度からみて交渉のテーブルでの論議さえ実現しがたいだろう。また南北および米朝関係も一時的に対話局面がつくられるとしても、結局は対決と制裁の悪循環へ戻っていくだろう。

米韓両国が北朝鮮の核放棄に相応する一定の代価の支払いを拒否しながら、「交渉は補償の悪循環のみ招く」という調子の主張ばかり繰り返すのは一種の責任回避にすぎない。そしてまさにこの点が、米国と北朝鮮、米国と中国、韓国の市民社会と保守政権間の長年の論争の核心である。北朝鮮の第五次核実験と次期政権の登場を背景にして、米国内でも「戦略的忍耐あるいは出口戦略の選択」をめぐって論争が激化している。

米国内の論争の頂点はウッドロー・ウィルソン・センターの所長であるジェーン・ハーマン(Jane Harman)が『ワシントンポスト』に寄稿した文章である。ハーマンは「重要な進展の可能性があれば、我々は今後米韓合同軍事訓練の保留を考慮し、北朝鮮が長年願ってきた不可侵条約を提起すべきである」とし、「短期的な凍結」が「狂気から脱する道」だと主張する。 20 現職の米国情報機関のトップであるジェイムス・クラパー(James Clapper)はさらに一歩進んで、「北朝鮮を非核化しようとする考えはたぶん『可能性がないこと』(lost cause)」であり、「核兵器は彼らの『生存チケット』であり、我々(米国)が希望しうる最善のものは(北朝鮮の核能力に対する)一種の制限(some sort of a cap)」であろうと主張する。 21

もちろん米国内では、はるかに苛酷な対北制裁を課して中国の対北支援を中断させるべきだという強硬論が主流であり、ハーマンなどの主張は少数である。現在までオバマ政権の公式的な立場も、非核化に対する北朝鮮の明らかな立場表明なしには対話できないという強硬論である。「何も変わらなかった。(米国)政府の政策目標は韓半島の検証可能な非核化を追求することである……そうすべき方法(a way)がある」という立場である。 22 現実的に北朝鮮の非核化の可能性がしだいに希薄になる中で、「そうすべき方法がある」と主張するのは、おそらく軍事オプションまで考えているはずである。従って、今後一定期間は対北制裁局面の出口の模索よりは北の反発とより強力な追加制裁の悪循環が持続する対決局面の深化が進行するだろう。

しかし、米国外交協会の報告書が指摘するように、米国の次期政権は北核問題を取り扱う最後の政権になる可能性が高く、この時期を逃せば韓半島の非核化は事実上不可能になるだろう。これは北核問題と韓半島の軍事危機が臨界点に達するという意味である。米国の次期政権がレジーム転換(regime change)レベルの対北圧迫を続けても、結局は交渉と先制攻撃などあらゆるオプションをテーブル上に載せて北朝鮮の選択を迫るだろうし、また米国も北朝鮮が掲げる「敵対か平和か」という長年の選択肢を決定すべき状況におかれるだろう。 23

現時点で最も重要な点は、韓米両国ともに強硬論が主導する条件の下で韓半島軍事危機の平和的な出路を求めて「交渉の扉」を開けることである。このためには、関連国すべてが次の諸条件を満足させる狭き門を通過すべきである。

① まず核・ミサイルのモラトリアムと軍事訓練の中断など相互敵対行為の凍結を交渉のテーブルに載せることへの関連国の共感帯の形成が必要である。 24 韓米両国は「先ず非核化」という主張の代わりに、北朝鮮の核凍結を交渉によって達成すべき第一次目標と認める認識の転換をなすべきである。

但し、「凍結」と「核能力制限」を事実上の最終目標とする北核凍結論が議題になってはならない。一部ではこうした「現実的目標としての北核凍結論」を米国の力の限界と北朝鮮の核戦略の勝利間近のように理解する人もいるが、これは性急な判断である。北核を軸にした韓半島の危機構造は米国の再均衡政策と韓半島の分断体制の維持の資産であるため、米国はこれを完全に破壊するよりは一定レベルで韓半島の軍事危機の構造を維持する選択をする可能性がある。その地点で北核凍結論は、米国には北核脅威のレベルを低め、他方では戦略的資産としての北核問題はそのまま活用する「変形した戦略的忍耐」政策になることもある。 25 つまり、米国には北核問題と韓半島の軍事危機の臨界点を管理する最善策が非核化ではなく「凍結」でありうる。これは核保有を既成事実化しようとする北朝鮮の利害関係とも一致する。

従って、韓半島危機の根本的解消のためには相互敵対行為の凍結とともに非核化・平和体制の交渉を一つのプロセスにまとめていこうとする目的意識的な努力が何よりも重要である。そうした努力は軍事危機の解消と非核化・平和体制に最も切迫した利害関係をもっている韓国政府の役目である。アイロニカルなことだが、北朝鮮の崩壊に執着した朴槿恵政権の無力化により北核交渉の環境が改善され、また同盟国の意見を尊重する米国政府の対北政策の選択幅もより広がることになった。

② 北朝鮮は非核化交渉を避けたり、「全世界の非核化」のような非現実的な目標に縛られるべきではなく。各種レベルの多様な接触を活性化して自らの非核化「7・6提案」を積極的に論議する姿勢をみせるべきである。

『二つの韓国』の共著者であるロバート・カーリン(Robert Carlin)は、北朝鮮の「7・6提案」の韓半島非核化の五条件で、駐韓米軍の撤収を除いた四条件は米国がすでに満たすか、一時原則的に同意したものであり、駐韓米軍の撤収条件でさえ「核使用権を握っている」米軍(核使用権を握っていない米軍は問題ない?)とか、「撤収」の代わりにあえて「撤収を宣布」することを要求した点に注目すべきだと主張する。 26 駐韓米軍問題と関連して北朝鮮の立場は硬軟を行き来する風をみせたが、2000年南北首脳会談当時など、主要な場面ごとに北朝鮮は極めて柔軟な立場を示してきた。 27

③ 北朝鮮は最低限、米国の政権移行期と新政権成立の初期には核や長距離ロケット実験および局地的衝突や挑発を自制すべきである。2009年4月オバマ大統領の「核なき世界」宣言を台無しにした北朝鮮の長距離ロケット(銀河2号)実験と、それに続く第二次核実験がオバマ政権の任期中に回復しがたい米朝間の不信の原因となったことを想起する必要がある。

同時に、米国の新政権もまた2017年の米韓合同軍事訓練は最大限ロー・キー(low-key)で展開し、公開的な対北核戦力デモを自制すべきである。武力誇示は北朝鮮の反発と追加挑発の出発点になるだけである。

④ 南と北の当局者は相手に対する軍事的・非軍事的刺激と挑発を中断し、対北水害支援など南北関係の改善のために最小限の努力を始めるべきである。北朝鮮が攻撃目標として公表した対北心理戦用の大型の電光掲示板の建設は中断すべきであり、「自由の地へ来たれ」とか「逆賊の輩」のような相手を刺激する言動は互いに慎むべきである。

交渉の門へと入るために、以上のプロセスをある程度通過してこそ「刃の上の」平和交渉を始めうる。「最小限の相互敵対行為の中断」は、こうした難しい交渉の継続性を保障するほぼ唯一の原動力である。

*本稿は、「第15回歴史認識と東アジア平和フォーラム」済州大会で発表した「東アジア新冷戦と韓半島の軍事危機の深化」(2016年10月21日)を全面的に改稿したものである。

(翻訳: 青柳純一)

Notes:

  1. 米国の前CIA局長ヘイドンは、中国がサードの韓国配置に反発するのに対して、「サード配置を嫌うなら(対北制裁決議を履行して)支援を中断せよと中国に反駁すべきだ」と主張した。「ヘイドン前CIA局長『北朝鮮は3~5年内に米国に達する核搭載ICBMを配置』」、『ニューシス』2016年9月25日。
  2. 2012年、韓日間の軍事情報共有のための「軍事情報保護協定」(GSOMIA)が密室での推進を問題視されてボツになるや、朴槿恵政権は国会批准を避けるために「了解覚書」形式で処理した。10月31日、朴槿恵政権は朴槿恵―崔順実ゲートが発覚した渦中でもGSOMIA締結の論議を再開すると発表した。
  3. 「2015年東アジア米軍基地問題の解決のための国際シンポジウム」共同宣言文、2015年9月4日。
  4. 中国清華大学の国際戦略発展研究所の楚樹龍所長の発言(「アジアの脅威、北ではなく米・日から来る」、『亜州経済』2016年7月25日)。
  5. 2014年11月韓米合同軍事訓練の暫定中断と核実験中止の交換を提案、2015年8月平和協定締結の要求など、北朝鮮の相次ぐ対話の提議に対して韓米は「非核化の進展」が先だとして拒否した。
  6. 北朝鮮の7・6提案は、「朝鮮半島の非核化」実現の五大条件として、①南朝鮮に搬入した米国の核兵器の公開、②南朝鮮におけるすべての核兵器と基地の撤廃、③朝鮮半島とその周辺に核攻撃手段の再搬入の禁止の担保、④朝鮮への核不使用の確約、⑤核使用権を握っている駐韓米軍の撤収宣布、を提示したのである。
  7. 「朝鮮外務省スポークスマンが共和国の自衛的核抑止力の強化措置をとりあげて弄んだ米国を糾弾」『朝鮮中央通信』2016年9月20日。
  8. 「機会は我々が選択する。虚妄な夢を見るな」『朝鮮中央通信』2016年9月14日。
  9. 「北『米本土、太平洋の基地の焦土化計画を最終批准』」『ニューシス』2016年9月21日。
  10. 米国の核戦略研究者であるナランMIT教授は中小核保有国の核戦略を触媒型(catalytic)、確証報復型(assured retaliation)、非対称拡戦型(asymmetric escalation)という三類型に分類する。触媒型は生存危機の時に米国の強力な支援を引き出すための核保有戦略であり、確証報復型は第2次攻撃力の確保が前提になり、非対称拡戦型は在来式の脅威に対応して迅速な核先制攻撃を追求する戦略である。Vipin Narang, Nuclear Strategy in the Modern Era: Regional Powers and International Conflict, Princeton University Press 2014.
  11. Jeffrey Lewis,”More Rockets in Kim Jong Un’s Pockets: North Korea Tests A New Artillery System,”38 NORTH,2016.3.7.
  12. Max Fisher,”North Korea, Far From Crazy, Is All Too Rational,”The New York Times, 2016.9.10.
  13. 「新たな冷戦を呼びこむ危険千万な軍事的な動き」『朝鮮中央通信』2016年7月16日。
  14. 拙稿「サードは『致命的な安保脅威』である」『チャンビ週刊論評』2016年7月27日。
  15. 「米国の次期政権は対北軍事行動まで検討するはず」『中央日報』2016年8月26日。
  16. 「最初の対北先制打撃訓練……変化予告」『MBC』2012年9月11日。
  17. 一部では、朴槿恵大統領が外交・安保などの外政のみ担当し、内治は挙国内閣や責任内閣に任せるべきだと主張しているが、こうした主張は南北関係の破綻と軍事危機の拡大、開城工業団地の閉鎖、戦時作戦権返還の無期延期、屈辱的な慰安婦問題の合意、サード配置の決定など、外交・安保・統一分野におけるあらゆる失政を黙認しようというのと変わりがない。また米国は、サードやGSOMIAのような敏感な事案はできるだけ無力化した朴槿恵政権の任期中に処理しようとするだろう。
  18. 「朝鮮民主主義人民共和国外務省声明」2015年10月17日。
  19. こうした主張は拙稿「第4次核実験後の韓半島と南北関係は?」(チャンビ週刊論評、2016年1月13日):イ・ジョンチョル「平和体制の入口論と非核化の立札論」(チャンビ週刊論評、2016年3月9日):キム・ヨンヒ「核凍結と平和協定の交換が答である」(中央日報、2016年2月5日)などを参照。今年9月に発表された米国外交協会(CFR)の報告書も、「先ず非核化ではなく、核とミサイル実験の凍結に焦点を当てて交渉すべきである」という内容を含んでいる。Sam Num & Mike Mullen(co-chair),”A Sharper Choice on North Korea,”CFR Independent Task Force Report No.74, 2016.9.
  20. Jane Harman and James Person,“The U.S. needs to negotiate with North Korea,”The Washington Post 2016.9.30.
  21. 「米国情報機関トップが『非核化』ではなく『核制限』を掲げだした理由は」 『中央日報』2016年10月26日。
  22. 「クレパーDNI『北朝鮮の核放棄の展望なく……凍結も不可能』」『ニューシス』2016年10月26日。
  23. 北朝鮮は2010年8月31日「外務省備忘録」で米国には二つの道があるとし、一つは「対朝鮮敵視政策を放棄して朝鮮半島の平和と安全…自国の安全を確保する道」であり、もう一つは「敵対政策を維持し続けて…我々の核兵器庫が拡大、強化され続ける道」だと主張した。
  24. 今年10月下旬、マレーシアで開かれた米朝間の「トラック2」会同の核心的議題は米国が提示した核とミサイル実験の凍結要求に対する北朝鮮の反応確認であったようだ。ロバート・カルーチは、この接触で一定の進展があったが、これの実現は全面的に米国次期政権の役目だと表明した。「カルーチ前特使『米朝の接触結果、米国の次期政権に伝達するはず』」VOA 2016.10.29.
  25. 白樂晴は本稿の初稿に対する論評で、「構造化された軍事危機」が分断体制を再生産する重要な原動力であり、そうした再生産体制を軍事的に破壊する確率は低下させうると指摘した。
  26. Robert Carlin,”North Korea Said it is Willing to Talk about Denuclearization …But No One Noticed,”38 North,2016.7.12.
  27. 2000年南北首脳会談当時、金正日委員長は「駐韓米軍は共和国への敵対的な軍隊ではなく朝鮮半島の平和を維持する軍隊として駐屯することが望まし」いと発言した(林東源『ピース・メーカー』、チャンビ、2015年、50頁)。 また、2007年ニューヨークを訪問した金桂寛と、2012年シラキュース・セミナーに参席した李容浩もまた敵対関係の解消と駐韓米軍の撤収を連係させないこともありうるという意味の発言をしたことがある。

マイノリティーの目で韓国社会をみる④: 「脱北者」を越えて

2016年 冬号(通卷174号)

マイノリティーの目で韓国社会をみる④
「脱北者」を越えて

李向珪(イ・ヒャンギュ): 漢陽大学校エリカキャンパスグローバル多文化研究院研究教授。共著に『私は朝鮮労働党員であるよ:非転向長期囚、金錫亨の口述記録』、『北朝鮮教育60年:形成と発展展望』などがある。
hyangkue@hanmail.net

 

誰も私にかまわないのに、外に出るといたずらに委縮される。それで近所のスーパーマーケットに行く際も軽く化粧をし、香水も少しふりまく。ここに来てから家族みな体重が減った。念のため薬局に駆虫剤を買いに行った。陳列棚に薬が多かったが、駆虫剤を探しにくかった。店員に聞いてみるといいが、話せなかった。人々がどう思うか気になった。そこでそのまま帰ってきた。たまにわけもなく心細くなる時がある。私はまだここが不慣れであり、私を眺めるか否かに関わらず、他の人々の目を意識することとなる。

娘たちは学校から家に帰ってくると、床に就くまで韓国語でひっきりなしにしゃべる。韓国の歌を歌い、ハングルを読み、夕食は韓国の食べ物を食べる。娘たちより遅れてここに着いた私は、娘たちがここの生活にうまく適応していることを望んだ。友達も付き合い、学校の勉強もよくでき、ここの食べ物もよく食べて、ここの人々とよく話し合うことを期待していた。ところが、娘たちは友達がいなかったし、韓国の食べ物を食べたがり、ぜひ必要な場合ではないと、家の外へ出たがらない。私は内心心配しながら、今日も娘たちと韓国の音楽を聴き、韓国の食べ物を作って食べる。

私は近所のスーパーマーケットで安いものもクレジットカードで買う。自分の名前の三文字を署名するその瞬間が好きだからである。名前を書く瞬間、私の前にいる店員にこう語る気がする。「あなたが見ている私が私の全部ではありません。私はここに来る前にあなたが知らない多くの経験をしましたし、今はわが生の一瞬間に過ぎません。私はあなたが今見ているより大きいです。」そのようにハングルで自分の名前を
書いたら、買い物籠を持った手に力が出るし、足取りが堂々となる。

自分の国で繰り広げられた惨憺たる人権侵害について書いた文章を、立ち遅れて読んだ。無辜に死んだ生命、十分に悔やまれ得なかった若い霊魂たちが思い出されて気が重かった。家を出て街を歩いた。眩しい日差しの下、それぞれ住んでいるここの人々は生の悲痛さについて何も知らずに、豊かでのんびりと暮らしているように見えた。私がここに属していないような気がした。この人々と私とはいかなる共通の記憶を持っていないということに、そして私はこの人々が楽しむ豊かさと余裕に寄与したところがないということに気付いた。それでこの社会が素敵ではあるが、自分のものではなさそうに思えた。

私は去る夏にイギリスの小さな海辺の都市に移住してきた。夫と子供たちが二ヶ月前に先に来ており、私は韓国での仕事と家を片付けてから合流した。2002年にロンドンで暮らしたことがある。その際、夫の故郷であるここでうまく定着できるだろうと信じていたが、思ったより容易くなかった。わずか2年後に二人の娘を乳母車に乗せて、逃げるようにイギリスを発った。韓国で私たちはそれなり一生懸命に暮らしたし、何よりも子供たちは、たとえ学校では「多文化学生」と呼ばれたが、韓国の子供としてよく育ってくれた。そして、12年振りに再びイギリスに帰ってきた。

韓国で私はずっといわば「脱北青少年」と「多文化青少年」の教育と社会適応を手伝う仕事をした。韓国ではこのように他の文化から移住してきた人々を、多様な名で分類し、区別付ける。もう私と子供たちは、韓国の政策用語を借りるならば、「結婚移住女性」と「中途入国青少年」となって夫と父親の国へ移住してきたわけである。すると、これまで韓国で私が「彼らのために」行なったことが「彼らの立場から」再び見え始めた。

一番目の物語―視線

私が他人の視線に縮み上がる際、それは実際に他人が私をそう見ているためなのか、それとも他人が私をそのように見るだろうと私が考えるためであるか。私はこの点が気になった。なぜならばここでは誰も私を眺めていないということに、ある日気付いたからである。そこでもしかしてその漠然たる「他人」は誰なのか、その視線はもしかして自分が作り出したものであったり、自分が増幅させたものではないか、疑惑を持つことになった。

実際にここの人々は他人に対してあまり関心がなさそうに見える。街頭にはあらゆる特異な服装と行動をする人々がいるが、自分に害を与えない限り別に不便な視線を送ったりはしない。体中に刺青をした人、短いスカートに羽根のついた帽子をかぶったお婆さん、スキニージーンズをはいたゲイカップル、公園に横になってキスする恋人……皮膚の色や外観の異なる数多い種族が街を共有している。韓国では振り返ったり、からかったり、舌を鳴らす人がありそうだが、彼らがどうともなく街を闊歩する状況は、まもなく私に妙な気安さを与えた。その気安さが私に来たした些細な変化は、真夏中、袖のない服と半ズボンをはいて街に出ることであった。それは韓国ではやってみなかったことである。私の歳に、私の体つきでそう着ると、「迷惑」だと人々が見なしそうだった。服を着ることが一体なんだと、韓国にいる時はそれがそんなにも難しいことであった。一度も日差しに晒されなかった肩が黒く日焼けした。その些細な自由が私の体の緊張をほぐした。

そうするうちに嫌疑が強くなった。私がここに来て感じた他人の視線は、実際ここの人々がアジア人を眺める視線というよりは、長い間韓国社会で暮らしながら学習した、それで結局ここにまで持ってきたわが心の中にある他人のレンズであるかもしれないということを。少なくともそのレンズが私の萎縮感を増幅させうるということを。韓国社会は私に絶え間なく他の人の視線に敏感でいることを教えたし、私はそれをあたかも自分の考えのように真面目に受け入れたようだ。他の人の視線に合わせながら多数に属しているという安堵感を感じる間、いざ「私」は萎縮していた。

夫はここで語学研修に来たいろんな国の学生たちに英語を教える仕事をする。ヨーロッパ、南米、中東から来た若い学生たちに教えながら、去る12年間教えていた韓国の学生たちがどれほど謙遜で誠実であったかが改めてわかったという。一生懸命がんばらないと不平を鳴らした芸体能大の学生たちにすまない気がするんだと、韓国に長く暮らしながら誠実さの基準があまりに高くなったようだと反省する。それから韓国の人々はもう少し自信感を持っていいと言う。中学校に通ううちの子供たちも韓国ではまったく自慢することではないのに、ここの子たちはすごく自慢すると言う。言われてみれば、われわれは自分の遂げた小さい成就を充分自慢したり祝う前に次の目標を立てる、そうしてその遥かな決勝点の前で再び小さくなる経験をあまりに長い間繰り返したようだ。それで自分を自慢することが、自ら優れていると思うことが恥ずかしいことになってしまったようだ。私は決勝点の前で常に「より熱心にすべき」存在である。悲劇は、その決勝点は私が決めたものではないという事実である。そこでわれわれは常に自らを足りないと思いながら、絶え間なく搾取したようだ。そして、自分を抑圧していた視線でもって同じく他人を眺め、評価し、抑圧することによって、その搾取のメカニズムに被害者でありながら同時に加害者として参加してきたのではなかろうか。

イギリスには北朝鮮の難民たちが数多く住んでいる。ニュー・モールデン(New Malden)という韓人密集地域には韓国の人、北朝鮮の人、朝鮮族が混ざって住む。まさにコリアタウンである。北朝鮮の人だけで1000名位いるという。ニュー・モールデンに住む北朝鮮の人を何年前に会ったことがある。彼女は韓国で住んでからイギリスに来ることになって、同じような境遇の北朝鮮の男性と結婚して息子と共に住んでいた。夫はスーパーマーケットで働くが、勤勉だと認められてもうすぐマネージャーになるという。シリア、アフガン、ソマリア、スーダンの難民に比べると、北朝鮮の難民はものすごく勤勉で真面目なので、地域社会の歓迎を受けるという。その話を聞いて新鮮な衝撃を受けた。韓国では北朝鮮の人々、特に北朝鮮の男性たちはよい評価が受けられない場合が多い。社会主義国家の配給体制に慣れていて、一生懸命に働く代わりに福祉システムに依存して暮らそうとしたり、職場でトラブルを起こして首になりがちであったり、保険の詐欺で一攫千金を狙う破廉恥な人としてしばしば膾炙される。移住民は彼らがどのような土壌に定着するかによって異なる方式で適応していくはずだが、このような姿が本当に韓国に住む北朝鮮移住民の典型ならば、その発現に韓国社会が負うべき責任はなかろうか。いや、いつも勤勉誠実であるべきだと、福祉システムに依存しないようにと、職場に順応しろと要求することは正当なのか。われわれが高い基準の勤勉誠実を彼らに求めながら非難する瞬間、われわれ自身もその絆の中により深く束縛されるわけではなかろうか。

私は去る10余年間、百名の超える北朝鮮移住民に出会った。主に青少年と女性たちであった。彼らが共通的に語るのは韓国人の「視線」である。韓国の人々が彼らを眺める妙な視線。身なりと口ぶり、あるいは自らの告白で北朝鮮の人であることが明かされた後に受けることとなる関心、同情、優越感、無視、教化、助言、軽蔑、配慮の視線と態度を語ってくれた。最初はそれが歓待なのか警戒なのか、親切なのか抑圧なのか見分けがつかないが、すぐそのすべてが合わせられた複雑な視線だということがわかる。そして、人々がそのような視線で見る以上、自分は決して韓国の人々と同等な関係が結べないということを見抜く。そうなると、北朝鮮の人だと告白したことを後悔したり、北朝鮮から来たということが現れないように努める。韓国人のように話し、食べ、着、化粧しようとする。自分を「北朝鮮の人」という範疇にぐっと押し込めるその視線を避ける方法は、他の人々と同じくなる方法しかないと考える。

最初の質問に戻って、私が他人の視線に縮み上がる際、それは実際に他人が私をそう見るからであるか、それとも他人が私をそのように見るだろうと私が考えるからであるか。その答えは社会によって異なるようだ。イギリスに住む私が感じる他人の視線は、私自らが増幅させたところが大きいということを告白する。それは韓国社会が私に社会化させた態度である。だが、韓国に住む北朝鮮移住民が感じる韓国の人々の視線は、たとえ自分の内面で増強された面があるとしても、絶え間なく言葉と行為で表現される実在に近い。ところで、この視線は事実彼らにのみ向いているわけではない。韓国社会では誰も他人の視線から自由でない。縁故も、背景も、高級趣向も、お金も、資格証も、労働の英雄らしい勤勉誠実さもなしに韓国の地に来た北朝鮮移住民を見る視線、それが何なのか、その視線を受けることがどのような感じなのか、われわれ皆少しずつは知っているのではないか、われわれの記憶の彼方に埋めておいた侮蔑感を探ってみると。

二番目の物語―適応

「もう適応したか」という質問を受けると、すこし考えさせられる。時差の適応もできたし、近所の地理も適度にわかり、三食をうまく作って食べられるし、夜によく寝て朝によく起きる。子供たちも大した問題なしに学校生活をしているようである。適応したようだ。ところが、もう一方で考えてみると、子供たちと私は未だイギリス人の友達がほとんどいないし、韓国の歌を聴き、韓国の食べ物を食べ、インターネットで韓国の放送を見る。私が家族以外に話し合う人のほとんどは、「カカオトーク」とインターネット電話で疎通する、韓国にいる韓国の人々である。生がここに来る前とあまりに連続されていて、私は時々韓国にいるという錯覚をしたりもする。果たして私はここに適応したのか。

韓国の虹青少年センターで移住青少年の支援事業をする際や、韓国教育開発院で脱北青少年の支援関連の研究と実践事業を行なう際、私たちはこの支援を通じて彼らが韓国社会に「適応」するよう手伝うべきだということを暗黙のうちに前提した。このために適応の程度を測定する指標を作り、適応を手伝ういろんなプログラムを開発し、彼らの適応を手伝うために教師研修を進めたりもした。私たちはその適応が彼らを一方的に韓国社会に「同化」させることではないと引き続き主張したが、私は事実私たちが目標とした適応と同化との間にいかなる根本的な違いがあったかよくわからない。私たちのものを「強要」するかの可否は、私たちが「北朝鮮なるもの」をどの位「認定」するかによっているということがわかったのはずっと後になってからである。

S奨学財団は「学びの場支援事業」を行なう。ここで私は支援される学びの場を手伝う専門委員として働いた。特に脱北青少年のための教育機関をコンサルティングしてあげることが主な業務であった。このような機関の中には子供たちの共同生活施設がある。子供たちはこの施設で暮らしながら近所の学校に通い、放課後はここでいろんなプログラムに参加しながら時間を過ごす。脱北した女性たちがいざ韓国に来てからはお金を稼ぐために外地に出かけながら、幼い子供たちをこのような施設に預けるしかない現実が悲劇的だと考えたが、いざ子供たちは兄弟の多い家庭の子供たちのようにわいわい騒ぎ立てながら明るく暮らすようであった。このような施設の中には北朝鮮の人々が設立して運営するところもある。私は、北朝鮮の人々が運営する機関に行くと、上辺では笑いながらお疲れ様と言いながらも、腹ではもしかして子供たちが手放されたりはしないか、厳しく訓育されたりはしないか、より詳しく見てみた。そして、北朝鮮の教師たちがこの子供たちの社会適応をより遅れさせそうで、韓国の教師を採用する計画があるか、地域社会との交流現況はどうか必ず聞いてみた。その後、何年間そばで見守りながら彼らの持った真正性がわかるようになり、この方々を教育者として尊重する私はそれなりに「公正な視角」を持っていると信じた。去年、A学校で混乱を経験する前までは。

A学校が習いの場放課後プログラムとして「集団舞踊」を申請した時、私たちはやや迷いはしたが、その試みを尊重して予算を支援した。すでに多文化学生に対する政策は、移住してきた母親の本国文化を尊重する方向へと進んでいたので、北朝鮮的なものに対してもある程度包容が必要だと思えた。中間点検および事業運営のコンサルティングのために機関を訪問した際、そこの教師たちは子供たちの実力を見せる思いで浮ついていた。子供たちは「子供行進曲」に合わせて集団舞踊を節度あるようにやり遂げた。たとえ歌は「自由の大韓民国を末永く輝かす新芽だよ」で終わったが、子供たちの動作と視線はあたかもテレビ番組の「南北の窓」に出る北朝鮮の学生のようで私は大変慌てた。この気まずさの余り、子供たちに聞いた。「おもしろいですか。」子供たちは大きい声でそうだと言った。「これすると、何がいいですか。」子供たちは自信感が出来たという。学校に行って発表もうまくできるようになったと言う。それでも私は気が軽くならなかった。「ここのダンスもできますか。」子供たちはシスターの「シェイクイット」のダンスができると言った。私は早速インターネットでその歌を探して子供たちに聞かせてあげた。集団舞踊の節度ある動作をしていたその子供たちが腰を回しながら「もっとホットに」体を揺らし始めた。そうしたら北朝鮮の教師たちは心が不便となり、私は安心した。初等学生の扇情的な律動を見る不便さより、この子供たちが韓国のダンスが踊れるということを確認した安堵感のほうがより大きいという事実にうろたえながらも。

私の住むイーストボーンは小さい都市でありながらも、「ケイ・ポップ」(K-Pop)が好きな子供たちがかなりいるという。韓国に対する印象はよい方である。次女と同じ年生の一人はハングルを独学して娘にカカオトークを送り、長女と同じクラスの一人は韓国の人々は皆肌がよいのかといいながら韓国人に生まれるといいなと言ったそうだ。ここのどこにおいても三星とLGの携帯電話と家電製品、現代とKIAの自動車が見られる。われわれはここで韓国人だということを少し誇らしく思い、韓国語を使い、韓国の音楽を聴くことをはばからない。幸いにも韓国で生まれたので、幼いときから習ったこと、慣れたこと、好きなことを捨てる必要がない。韓国的なことをするためにはイギリス的なことも同じくできなければならないと、誰もわれわれに要求しない。私がA学校の学生たちに求めたそれを。

カナダの心理学者であるジョン・W・ベリー(John W. Berry)のモデルによると、移住民が移住してきた地域の文化と自分の元の文化の両者を如何に受け入れるかによって、彼は同化(Assimilation, +-)、分離(Separation, -+)、統合(Integration, ++)、周辺化(Marginalization, –)という四分面の中の一箇所に位置することとなる。両文化をすべて肯定的に見なす「統合」こそ、最も健康な状態だと述べるが、私は北朝鮮移住民たちが自分の成長した文化を韓国でどれほど肯定的に見なせるかが気になる。それは彼が如何に主観的に感じるかということだけでなく、韓国社会が北朝鮮社会の日常的経験をどれほど容認するかにかかっている。ずっと前のことが思い出された。

約10年前に中学生向けの統一教育を進めたことがある。二つの学校から集った学生の800余名を対象に、大きな舞台で脱北大学生の4名が自分の北朝鮮での生活について語り、学生たちの質問を受ける方式で進行した。発表者たちには北朝鮮に対する自分の記憶を率直に語ってくれるように前もって頼んだ。否定的な面だけでなく、よい記憶を語ってもいいと言っておいた。一人の男子学生は北朝鮮のきれいな水について語った。村の前の川水を手で掬って飲んだが、ここに来て水を買って飲むということに大変驚いたという。女子学生は故郷では村の人々が皆互いに知り合って暮らし、大変なことは皆一緒に助けてくれたと言った。ここに来たら、隣が誰なのかわからないし、エレベーターで互いに挨拶しないのが可笑しいといった。聴衆が多すぎて質問は観客席から飛ばす紙飛行機で受けることにした。質問の時間に中学生たちが飛ばす色とりどりの紙飛行機が舞台の上に落ちた。その中の一つをもらって読んだ女子学生の顔が急に赤くなった。そこにはこう書いてあった。「そんなによければ再び北朝鮮に行けばいいじゃない。」

韓国に来ている北朝鮮の移住民にとって適応とは何なのか。適応するために自分の記憶を消し、自分の育った社会を否定しなければならないならば、適応は努力する価値があることなのか。彼らにそれを要求することは正当なのか。もしイギリス社会が私にそのような適応を要求するならば、それでここに来る前までの自分の生を否定しなければならないならば、私はおそらく自発的に不適応を選ぶだろう。

三番目の物語―名前

2009年12月のある夕方、北朝鮮で教師であった人々10余名に会った。当時、私は韓国教育開発院の脱北青少年教育支援センターで研究企画チーム長として勤めていた。新たに始まる「NK教師アカデミー」事業を企画し、実行することがわがチームの仕事であった。NK教師アカデミーは脱北した北朝鮮の教師に所定の再教育の機会を提供して、脱北学生たちが在学する韓国の学校の補助教師として働けるようにする実験的な事業であった。教育部と協議して始めはしたものの、果たしてどのような人々が集ることとなるか、再教育の課程がどのように進められるか、修了後に一線の学校がこの人々を受け入れてくれるか、すべてが不確かな状況であった。すべてを柔軟に開けておいて、縁のある人々と課程を共に作っていくという心構えで始めた。

北朝鮮で「職業的革命家」と呼ばれる教師の威信は高い方である。初等学校の入学から卒業まで、中学校の入学から卒業まで一人の教師が引き続き担任を務める制度は、教師が学生の成長に責任を持つように責務性を強いる。韓国のように一人の学生が学校の内外で数多くの先生に会うせいで、結局教育が失敗した際、その責任が誰にあるかわかりにくい構造とは全然異なる。それでも勉強ができて、誠実な人々が教師となることや、この規範的な教師たちが乱世に適応力が落ちるという点は、韓国も北朝鮮も同じようである。韓国に来た北朝鮮の教師たちは他の北朝鮮移住民たちと同じく、食堂で働いたり、何をなすべきか方向が掴めずに、あちこちを転々としていた。他の人を教えたり、世話する仕事をする人は一人もいなかったし、自分の子女の教育に対してさえ自信がなさそうであった。

事業の説明をしながら、この課程が「資格証」や「就業」を保障するわけではないという点を、何回も強調した。後で彼らを失望させるか心配したからである。皆さんが教育現場で働けるように最善を尽くすが、就業は約束できないし、その代わり、韓国の教育について学べる「機会」を提供すると話した。教育制度、教科の内容、教授方法、学生指導、そして脱北学生たちが経験する困難さについて講義し、討論し、実習することと説明した。

冬の夜であったにも関わらず、部屋の中は暑かった。人々は上気していて、その機会に感謝した。誰も就業を要求しなかった。その代わり、これまでこのような機会をどれほど熱望してきたかを告白した。一人の先生はこのような話を聞かせてくれた。家の近所に初等学校が一つあるが、いつもそのまま通り過ぎれず、垣根の外でしばらくの間立ち止まっていたと。教室から聞こえてくる音、運動場で子供たちが遊び回っている音をじっと聞いていて、通り過ぎる人からにらまれる視線が感じられると座を立ったりしたと。学校を考えると、懐かしさと痛みが同時に湧くと言った。一時、北朝鮮で同僚教師であったはずの彼らは皆涙ぐんだし、互いに会ったことだけでも感激していた。

この事業はその後も多くの物語を残しながら、今まで続いている。何年か前から事業は統一部に移管されて、今も20余名のNK教師たちが脱北学生たちの多い学校で勤務している。相変わらず「NK(North Korea)」の二文字を条件のように付けてはいるが、それでも私は彼らに「教師」の名を取り戻してあげたことを誇らしく思う。彼らを一群れの「脱北者」に見なさず、ここに来る前にやってきた仕事を尊重し、個々人の経験と熱望に注目しながら共に生きていく方法を見出そうと試みたという点で、私はわが社会が十分ではないものの、一歩は前へ進んでいったと考える。

政策用語の使用が避けられない場合がある。「北朝鮮離脱住民」、「結婚移住女性」、「移住背景青少年」、「中途入国青少年」など、政策用語は支援が必要な対象を明白にし、彼らが経験する共通の困難さを表すという点で有用である。ところが、問題はこのように作られた集団の名が私の全存在を規定することになる瞬間、私はその名の中に閉じ込められることになるということである。その名前は確かに私の一部ではあるものの、決して全体ではないわけだが、人々はその規定の中でのみ私を眺める。さらにその名前は他人が私を眺める視線の中で付けられる場合が多いので、他人が考えを変えない限り、私はずっとそのイメージに留まることとなる。その場合、その名前を否定しないと、一歩も進んでいけなさそうな捕縛感を感じる瞬間が訪れる。

北朝鮮移住民は「脱北者」と呼ばれる限り、暴政と飢餓に苦しみながら死線を超えて辛うじて自由を探して来た人々、ここに来てからは適応しにくくて、韓国の人々の暖かい世話が必要な人々でなければならないわけだ。彼が北朝鮮でどんな仕事をし、何が好きで何ができるかは二次的である。カナダに行ったものの難民申請が拒まれて再び帰ってきた青年に会ったことがある。その青年はそこに行ったら、自分を脱北者として眺める視線から脱したことが非常に快かったという。それでもわが言葉が懐かしくて韓人教会に出始めたし、僑民社会はこの「脱北者青年」を積極的に支援してくれた。始めは多く助けられたが、次第に一人の力でもうまくやっていけるようになったという。英語もある程度できるようになったし、他の国から来た青年たちと友達になるにつれて韓人会の助けはあまり要らなくなった。ところが、韓国の人々は自分を引き続き助けが必要な脱北者として眺めたし、助けを断る度ごとに不快がった。自分が彼らを「裏切る」ような気がして苦しんだが、次第に教会に行かなくなったという。顧みると、その視線は韓国で住む際、自分が感じた視線と変わらなかった。脱北者は脱北者らしくなければならなかった。

私はイギリスの人々の前で私の名前をハングルで署名することが好きだ。それは人が私を規定するのではなく、私が私の存在を書いている感じを与えてくれる。私にとって私の名前はこれまで生きてきた数多くの記憶を盛っている器である。韓国に来て改名する北朝鮮の人々が少なくない。ヨンシリ、オギが韓国に来てソビン、テヒとなる。「脱北者」という名前から脱するためには、自分の固有な名前も共に捨てなければならないと考えているようである。「北朝鮮らしい」名前が烙印となること、それで自分の過去と決別すること、それは彼らのせいにする問題ではない。その決別を選択するまで経験したはずの心の崩れが感じられる。北朝鮮移住民に対する真正なる「歓待」は未だ遥遠である。 1

四番目の物語-関係

韓江(ハン・ガン)の長編小説『少年が来る』(創批、2014)を読んだ。1980年5月の光州をこう描くことができるとは。本を読んだ人々は皆数日苦しいという。私もそうだった。少年たちを哀悼しながら、私の悲しい心も慰めてもらいたかった。ところで、休養地の海辺で休んでいる人々はあまりに平和に見えた。私の世界と彼らの世界は全くつながっていないようであった。

人文地理学で「空間」(space)と「場所」(place)は異なる概念だそうだ。空間はそれこそ抽象的な三次元の世界である。この空間を人々が認識し、そこに社会的な意味を与えるようになると、場所となる。意味のある空間が場所であるわけだ。自分のものではないと感じた海辺は、ただ私が立っている空間でしかなかった。ここの平和さは絵の中の風景とあまり変わらなかった。どうすればこの空間が私に意味のある場所となろうか。その際、私はここが自分のものではない理由が、私がこの社会の豊かさと平和に「寄与」したところがないからだと考えた。それはおそらく光州民主化運動の物語が触れた私の原罪意識が私を萎縮させたからであろう。少なくともその時はそう考えた。

時間が過ぎて自分にもう少し寛大になった時、共同体に所属されることは「寄与」ではなくて、「関係」の問題だということを思い出した。私がここに属し得ない感じを抱くのは事実、私がこことまだ「関係」を結んでいないからそうなのだ。その際、海辺でもし知り合いの人に出会って、私がこういう本を読んだが、非常に気が重くなったと話したならば、それで少しでも共感を得たならば、そこはそれほど不慣れではなかっただろう。空間を場所にするのは「関係」のようである。

不幸にも韓国社会は他人と関係を結びやすいところではない。韓国では同じマンションに住んでもあまり言葉を交わさなかった。初等学校2年生の時、うちの子は「隣」をこう定義した。「隣は箱である。開けられるが、だれも開けない。」韓国のマンションはそうであった。韓国で何年前に会った一人の女子学生は、自分の父親があまりに可哀想だと言った。北朝鮮では常に父親の友達で家中が騒がしくて愉快であったが、ここではやってくる人が誰もいないという。ある日、父親はつくねんとこう話したという。「泥棒でもいいから、誰か訪ねてきたらいいな……」韓国社会はいつの間にか孤独な個々人が箱の中に入って一人で住む社会となった。寂しいのは北朝鮮移住民だけではなかろう。事実、私たち皆そうである。ただその箱の外に出ることがある人にとってはより難しいだけである。

関係を結ぶということは、その人と私との間に物語が作られるということである。物語を共有しながら、私は彼を完全で固有な一人として知り合うこととなる。彼を眺める社会的視線、彼に一方的に適応しろと言った不当な要求、彼を集団の中に閉じ込める名前はすべて彼を知る前のことである。一人を個人として知るようになると、彼がある一つの物差しで評価できぬ存在であることがわかってくる。私は運よくも生きながら多様な人に出会い、彼らの話を聞くことができた。それで「障害者」、「性少数者」、「移住民」、「脱北者」という単語を聞くと、思い浮かぶ具体的な人々がいる。そして、彼らのおかげで私は彼らにそのような名前を超えていろんな姿があるということがわかる。

多様な背景を持った高等学生たちが車座に座って自分のいきさつを話し、「統一韓国」で自分の生を描いてみる一泊二日のキャンプを企画し、進行したことがある。そこにはいわば「脱北学生」と「多文化学生」たちもいた。規則は簡単であった。各自20分ほど、いかなる妨げなしに自分の話をし、他の人々は判断したり評価したり助言したりしないで耳を傾けて聞くことである。霊魂が安全な空間で人々が語るストーリと、それを通じた疎通のダイナミックは、芸術と奇跡との間のどこかにあるようだ。子供たちは皆涙を流し、自分の話をこのように長くしてみたことは初めてだといった。それはたかだか20分であった。この間、そのキャンプに参加した一人の女子学生が、その時の経験がもたらしてきた変化について語ったことを聞き伝えた。その際、完全に理解してもらってから、もうこれ以上自分が北朝鮮で住んでいたことが恥ずかしくなくなったし、もうそれを隠さないんだと。

言いたいことを言って、それをよく聞くことは意外と力が強い。語れないと恨みとなる。当然言うべきことが言えないと、生きては心気症が起こり、死んでは怨霊となる。伝来された物語にこのような怨霊が多く登場するのを見ると、われわれは代々に埋められてしまった痛みが多いようだ。『少年が来る』を読んでなぜそんなに胸が痛んだかを考えてみると、80年5月の光州を生きた少年たちと若者たちの物語が匿名の犠牲者をわが隣として改めて眺めさせるようにしたからである。そのことを今になってこう聞いている自分がすまなかったからでもあり、われわれが相変わらず語らせない社会、語っても聞かない社会に住んでいるという挫折感のためでもあった。

ここの人々は話すことと聞くことが好きなようだ。イーストボーンの図書館は蔵書があまり多くないが、歴史書のコーナーはけっこうよく整っている。特に一次、二次世界大戦当時の人々の生に関する本がかなり多いのが印象的である。激動期を生きた普通の人々の生が書架をいっぱい詰めている。ここで歴史は暗記科目ではなく、未だ読まれ、再現される人々の物語である。書店に行っても歴史書が小説本や料理本ほど多い。コミュニティーセンターには地域住民の生涯史の物語がパンフレットのように置いてある。パブと呼ばれる酒場でもストーリーテリング集いの広告が見られる。広告を見ている私に、一人の男性が通りながら、誰でも来てただ聞くだけでいいと、人々が自身の生を語るが興味津津で驚くべきだと、自分は毎月参加するんだと、一度来てみてと勧めた。

こういう風景を見る度に少しうらやましい気がする。私はある話をする際ごとに「こういう話をしてもいいかな」という自己検閲をしてきた。80年代には「捕まえられるのではないか」と恐れたし、その後はこの話が「如何なる政治的立場に立っているのか」を先に計算しなければならなかった。日常的には「あまりにもったいぶっても、あまりに目立ってもならないし、私に期待されること以上を語ってもならない」と考えた。すべての対話が論争的で、理念的で、また階層的な葛藤を内包しているようで、芸能番組に関する話以外は安全な領域がないと感じた。そうするうちに、世の中には必ずすべき話とはなさそうであったし、結局私も自分だけの箱の中に入っていたようだ。誰でも自分の話ができて、他の人の話をありのままに聞ける社会になれば、われわれ各自が感じる生の抑圧は多く解消されるのではなかろうか。そのような社会ならば北朝鮮から来た人々も容易く箱の外に出て、自分の経験が話せるだろう。そのような社会ならば痛みを胸にしまっておいて心の病を持って生きる人も減るし、われわれの孤独も耐え忍べるだろう。そして、何よりも人々の間に関係が作られるだろう。

終わりながら再び始める物語

本稿を仕上げることがとても大変だった。話をすべて終えた後に「そこでこうすべきだ」という結論を書かなければならないが、方向が掴めずいろんな想念を書いたり消したり何週間も繰り返していた。そうするうちにまた異なる物語に出会った。

先週、韓国から送った引越しの荷物が届いた。荷物を運ぶ人足は三人であったが、その中の二人が北朝鮮の人であった。二人とも体つきが私よりも小さかったが、重い荷物を軽々と持ち上げながら嫌がる気配は少しもなかった。荷物が多くて申し訳ないと言ったら、これ位は仕事でもないと笑った。カップラーメンで食事を済ましながら一日中荷物を運ぶが、これほど熱心に働く人々はイギリスに来て初めて会った。韓国では韓国と北朝鮮の人々の異なる点がそんなにも目に見えたのに、ここでは抑揚は問題でもなかった。話があまりにもよく通じた。喜びの余りぞろぞろ付きまといながら話しかける私の口から「同胞」という言葉がすらすら出てきた。

私たちが新たに買った家は少し修理が必要であった。家の修理をする何名のイギリス人に見積もりを要請したが、二週間が過ぎても全く返事がなかった。この速度ならいつ工事が出来るのか期し得ない羽目であった。引越しの荷物を運んでくれたKさんが家の修理もするというので連絡してみたら、翌日、友達と息子を連れて二時間も車を運転してわが家を訪れた。直すべきところを見てみた後に、この仕事を彼らが受け持つことになった。ニュー・モールデンからイーストボーンまでは遠すぎるので、初めからわが家で一週間起居しながら工事をすることにした。明日彼らは道具と共に、米、キムチ、電気炊飯器、布団を載せてわが家に来る。ここの人々には聞いたことも、見たこともない光景となるだろう。

Kさんに会ってから私は安堵し、感謝したし、逞しかった。これはこれまで北朝鮮の人々に数多く出会いながらも一度も感じられなかった感情であった。なぜなのか。それはKさんが特別な人だからではなくて、これまで私が北朝鮮移住民と会った状況自体が非常に奇形的であったからだということにふと気づいた。これまで私は彼らとインタビュアーとインタビュイーの関係で、研究者と研究対象者の関係で、支援してあげる人と支援してもらう人の関係で会った。考えてみると、一人も対等に会ってみたことがない。私は常に観察者か、それとも恩を施す人であったので、今のように同等な関係の相互依存的な状況は繰り広げられなかった。今まで私は、そのような状況で彼らに対する私の判断がどれほど歪曲されうるかについては考えもしないまま、私が北朝鮮移住民たちをよく知っていると信じた。急に恥ずかしくなった。

これから私がここで彼らと結ぶ関係は変わりそうだ。第3地帯で互いに移民者として住んでいる北朝鮮出身の移住民と韓国出身の移住民との関係は、私が韓国人としての優越感を敢えて押し立てなければ、少しはより平等になるだろう。そうなると、彼らが、共に暮らす隣として見直されるのではなかろうか。その上、私たちは皆が皆に頑固な韓国社会から脱しているから。本稿を終えながら、私は未だある「結論」を出す能力がないということを告白せざるを得ない。まだより多くの物語を聞くべきだということを、そしてそれはより同等な立場で話し、聞く過程であるべきだということを知っている。なので私にとって本稿の終わりはまた一つの物語の始まりであるわけだ。

(翻訳:辛承模)

Notes:

  1. 私はこの詩ほど移住民をうまく表現した文章はないと思う。よく知られた、鄭玄宗(ジョン・ヒョンジョン)の詩「訪問客」である。「人が来るということは/実は物凄いことである。/彼は/彼の過去と現在と/そして/彼の未来と共に来るからである。/一人の一生が来るからである。/壊れやすい/それで壊れもしただろう/心が来るのである。/おそらく風は見分けられるはずの/心。/わが心がそのような風を真似るならば/つまるところ歓待となるだろう。」(鄭玄宗、「訪問客」全文、『光輝の囁き』、文学と知性社、2008)

日本の社会運動から見る大転換

2016年 秋号(通卷173号)

日本の社会運動から見る大転換

押川淳/『現代思想』の編集者

 


2月中旬に発表された一つのブログ記事をめぐって、日本社会は大きく揺れることとなった。この記事のタイトルは「保育園落ちた日本死ね!!!」。そのさわりを引用する。

何なんだよ日本。
一億総活躍社会じゃねーのかよ。
昨日見事に保育園落ちたわ。
どうすんだよ 私活躍出来ねーじゃねーか。
子供を産んで子育てして社会に出て働いて税金納めてやるって言ってるのに日本は何が不満なんだ?
何が少子化だよクソ。
子供産んだはいいけど希望通りに保育園に預けるのほぼ無理だからwって言ってて子供産むやつなんかいねーよ

これは匿名記事だが、朝日新聞の取材によると、書いたのは東京在住の30代前半の女性。1歳になる子どもを持つが、保育園への入園を断られ、仕事への復職が困難になっているという。

日本では90年代後半から保育園の不足が顕在化しはじめた。少子化にも関わらず、自治体の監査を受けた保育園に入れない「待機児童」は増加を続け、現在では文科省の公表で6万人、民間の試算では50~90万人に達している。選択肢としてのこされるのは、1)環境が悪く高額な認可外の保育サービスを利用する、2)親戚縁者の協力を得る、3)母親が復職を断念する、のいずれかである。上記のブログ記事はこの状況を告発したものであり、文面は安倍政権によるスローガン「女性活躍社会」が当事者を愚弄することへの怒りに満ちている。記事はこの後、東京オリンピックへの巨額の予算投入、国会議員の巨額報酬をやり玉に挙げ、それらをなくして保育園を拡充しろと主張する。

この記事が発表されるや否や、Twitterを中心に数多くの賛意が寄せられ、2月下旬には新聞・テレビ等のマスメディアでも紹介が相次いでされた。野党・民主党(現民進党)の山尾志桜里議員は29日、国会で記事を引用し安倍政権の欺瞞的政策を糺したが、それに対する安倍の返答は「匿名である以上本当かどうか分からない」というものであり、与党議員からは「書いたのは誰だ」というヤジが続いた。この態度に呼応するように、ネット上では匿名ブログの書き手は山尾本人であるというデマが拡散された。

だがこうした反動は、当事者である親たちに留まらない広範な人々の怒りにも火をつけた。すぐさま「#保育園落ちたの私だ」というハッシュタグが拡散され、国会前での抗議集会も開かれた。また保育園不足の最大要因である保育士の劣悪な雇用環境も注目され、「#保育士辞めたの私だ」「#保育士なめんな」というハッシュタグとともに、待遇改善を訴える声も高まった。

日本社会で子どもを育てることは、いまや「罰ゲーム」であるとすら言われる。子育てのため就業を諦める女性の数は数十万を下らないとされ、復職が叶ったとしてもほとんどが職場での差別的待遇を何らかの形で受けることになる。一方で子どもを預かる保育士たちは高度な専門性と重労働を求められるにも関わらず、全職種の平均月収より11万円も低い額しか得られず(およそ15万円と言われる)、その多くが数年で退職してゆく。

だが実は、保育園拡充を求める運動は以前から存在した。2013年春には東京都内の各自治体(保育園の認可は自治体がおこなう)に対して親たちが一斉に抗議を展開し、「保育園一揆」として注目された。またいくつかのNPOによる共済型保育を試みも参加者を増やしている。ブログ記事に共鳴した親たちも、もちろんそうした地域ごとの実践・現実的な取り組みは熟知し、参加もしているだろう。しかしそれでもなお、その怒りはいま、「日本死ね」というもっとも率直なかたちで、この国の中心部にぶつけられているのだ。

 


同様の構図は、昨年夏の安保法制(アメリカを中心とする同盟国と自衛隊の共同軍事行動を可能にする法改正)への大規模な抗議運動にもみることができる。この運動は、1960年の安保闘争以来はじめて大学生が中心を担ったと報道されたが、クローズアップされた学生団体SEALDsのメンバーは、なぜ地域や身近にある社会問題、あるいはNPOといった活動ではなく、国家の大問題に関わるのか、とくに40~50代の人間から批判されたという。おまえたち学生は平和憲法や戦後民主主義の価値を主張するような身分ではない、と。

しかし、その中心人物である奥田愛基は、みずからを街頭抗議へと駆り立てたものはいわゆる護憲の意識ではなく、「舐めるな」という怒りの感情だった語る。彼らは平和憲法や戦後民主主義に対して思い入れを持っていたわけではなく、その評価も個々人で様々に分かれる。だが、自民党が連綿と続けてきた改憲論議のなかでも、安倍政権によるものは突出して権威主義的であり、安保法制もその一環として、非論理性と恣意的な根拠、合意形成への明白な嘲笑のもとで定められようとしていた。こうした出鱈目な(非-)政治がなされることへの怒りが、彼らを街頭へと駆り立てたのである。

昨年8月から9月にかけて最高潮に達した反安保法制運動は、国会前に10万とも20万ともいわれる民衆を集めた。そこは、平和憲法と戦後民主主義を「守る」ために再結集したいわゆる「護憲派」と呼ばれる市民と、奥田が語った「怒り」を抱えた人々が同居する空間だった。そうした人々の多くは30代後半(77年生まれ)から高校生(97年生まれ)に属し、「#保育園落ちたの私だ」の人々もそのなかに含まれる。彼らはいわゆる(90年代後半からの現在まで続く)「日本の失われた20年」のただなかで、多くの困難を被ってきたのである。

バブル景気が終息した後、日本経済は長い低迷期に入るが、公的資金の大量投入と低金利政策、減税によって大企業と銀行は優遇的に資金を集め、国際的競争力を維持した。ここでは詳らかにしないが、コーポレート・ガヴァナンスの改善はなされることなく、日本型企業経営の家族主義は新自由主義と接合しながら延命を遂げてきた。85年の男女雇用機会均等法により「男並みに働く」限りにおいて組みいれられた女性正社員の多くは企業におけるフリンジ的労働力と位置づけられ、表向きの先進性のアピール材料とされる一方で、実際には、激増した非正規雇用者とともに労働市場における調整弁となった。もはや企業経営に道義性が問われることはなくなり、職場における差別・ハラスメントは限りなく増大・多様化した。非正規雇用は賃金労働者の4割に達し、大企業と中小企業の差はかつてないほど拡大し、固定化しつつある。その結果、(男性正社員、あるいは主婦(夫)も含む)ほとんどの労働者は絶え間ないストレスに苛まれることになった。

与党自民党もまた、福祉・社会保障・教育への公的支出の削減と市場原理の導入により、経済界と協働して苦境を悪化させた。代わりに福祉・社会保障の場では自己責任論と受益者負担論が、教育の場では権威主義が強調され、誰の目にも明らかであるにもかかわらず、問題は非政治化され続けた。また、それは他方で日米軍事同盟の強化とミリタリゼーションへと接続された。

上記の人々は、そうした状況のなかで年を重ねてきたのである。

 


こうした声は、福島原発事故による放射能公害を機にして最初に爆発した。いくつかの社会調査は、女性の方が男性に比べ被曝の危険性に対して敏感に反応し行動に移したこと、反原発運動の中心的担い手に正規雇用以外の人々が多かったことを示している。彼らが大震災後から13年にかけて動き、国会議事堂前を象徴とする街頭政治の場を切り開いたことで、「失われた20年」の影響を色濃く得た人々(学生たち、子育て世代たち)が声を上げるようになったと言えるだろう。

さらに重要なのは、彼らにとって、この間の20年は自動的に「失われた」ものではなく、「奪われた」ものだということだ。奪ったのは誰か。経団連を中核とする経財界(大企業群)、与党自民党(プラス公明党)およびその支持層、官僚機構、一部の学者・言論人・マスメディアの集合体である。ブログ記事が「日本」と名指したのはこれらの集団のことである。そして、これらによって絶え間なく不正義が蓄積され続ける状況を、私はここで「腐敗」と言い換えたい。このような長きにわたる不正義を、腐敗と言わずしてなんと言うのか。

バブル期に相次いで起こった政治汚職は、いわゆる「政治改革」として名目上の二大政党制へといきついた。だがその一応の成果である民主党政権下でおきた大震災は、腐敗が単に政治汚職に留まるものでなく、さらなる深部で起きていたことを誰の目にも明らかにした。電力会社・官僚機構・学術界のトライアングルによる「原子力ムラ」は、その典型例だった。

反原発運動から反安保法制、そして保育園問題へと、多様なトピックをまたいで続けられるこのかんの社会運動を貫く共通のモチーフは、このような奥深い腐敗への怒りにほかならない。奥田たちはその象徴を安保法制に見出し、「舐めるな」というシンプルな表現を集約点として、多くの新たな参加者を国会議事堂前に集めた。そしていまや、そうした人々の怒りは剥き出しの「死ね!!!」という言葉に託されるまでに至ったのだ。

 


おそらくこの20年を通してもっとも経団連との親和性が高い安倍政権は、「アベノミクス」により民主党政権が徐々に回復しつつあった福祉・社会保障を破壊しつつ、最終的目標としての改憲へと歩を進めつつある。だが下記に示した最新の世論調査(と過去35年あまりの推移)によれば、朝日新聞(リベラル)・日本経済新聞(経団連寄り)の両者で、このかん改憲派は護憲派を下回るまでに減少している。

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図 朝日新聞と日本経済新聞による合同世論調査(5月3日発表)

この図は80年からの経過を示しているが、2007年までのなだらかな護憲派の減少は、社会党・社会民主党の衰退と軌を一にしている。それが民主党への政権交代で上昇をはじめ、東日本大震災を受けてピークを迎え、民主党政権の崩壊で一時的に落ちたものの、それ以外は11年以降ほぼ安定して護憲派が過半数を維持している。つまり今の「護憲」を支えるのは、大震災以降に政治的主張をするようになった「新・護憲派」たちなのである。

これを安倍政権の急進的右傾化により、国民の平和意識が再び意識化され改憲志向を凌駕したためと捉えれば、50年代との反復が見出せるだろう。だが私は、もっとも腐敗した政権が目指すゴール、いわば腐敗の最たる象徴が、安倍が目指す改憲であったための護憲運動だと捉えたい。この20年間の「奪われた」人々と大震災後の「新・護憲派」は明らかに重なり合っている。したがってこれは護憲運動という表現をとった反腐敗闘争であり、かつて日本社会が経験してこなかった局面が到来していると言わなければならないのである。

もちろん平和憲法、あるいはそれを掲げた戦後民主主義は無謬のものではない。そして、この平和主義が前提とし、あるいは隠蔽しているものに対して、「新・護憲派」がどのような態度を取るかは、いまだ未知数かもしれない。

だが、憲法をトポスとして蓄積され表現されている腐敗への怒りは、平和憲法を国民的に占有し、戦後民主主義だけが普遍的だと無前提に擁護するのではない、別様の「護憲」の道をひらき得るのではないか。それは世界各地で現在さまざまに展開されている反腐敗闘争の試みのなかに、一つのヴァリエーションとして日本国憲法を置いてみることであり、あるいは東アジアの「奪われた」世代、「奪われた」人々とのあいだに協働の回路をひらくことへの可能性である。長期間にわたり深刻な規模に及ぶ、この腐敗にたいする怒りは共有されつつある。私たちはこの怒りを基軸として、日本社会に転換をもたらさなくてはならない

 

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しかしながら、私たちの未来への見通しを見出すことは容易ではない。

7月31日に行われた東京都知事選挙では、自民党内でも最右派に属する小池百合子が得票総数のほぼ過半数を獲得して圧勝した。彼女は自らのタカ派的主張と改憲への姿勢をあいまいにしつつ、自らが男性に支配された自民党への反逆者であることと、待機児童問題へと積極的に取り組むこと(その政策には多くの問題点が含まれるが)をアピールすることで、広汎な支持を集めた。こうした腐敗への怒りと憲法とを分断し、弥縫的な代案によって不満を解消しようとする戦術は、当然ながら安倍政権によっても進められている。衆参両院で2/3の議席を確保している改憲勢力は、憲法をめぐるトポスを絶え間なく分断させながら(たとえば米軍基地問題に対する本土の関心をそらしながら)、時間をかけて改憲のタイミングと方法を探っていくだろう。私たちは粘り強く、また場所やイシューを相互に受け渡しながら、抵抗していかなければならない。

だが、分断とたたかいつつ怒りを深化させることは、いかにして可能になるのか。逆説的ではあるが、私たちはまず自らの生活圏へと降り下り、そこで進行する腐敗の激しさと危機の深さへ目を向けなければならないのではないか。

7月26日夜、神奈川県相模原市の障碍者福祉施設に元職員の男性が侵入し、45名の入居者を殺傷した。この事件についてはいまだ不明の部分が多く、予断は慎まなければならない。しかし障碍者のみを狙ったヘイト・クライムとして、世界的に見ても類を見ないほど悲惨な事件であることは確かだ。犯人男性は犯行前に大島理森衆議院議長に手紙を送り、「保護者の同意を得て安楽死できる世界」が望ましいという考えを披歴するとともに、自ら障碍者を「抹殺する」ことができると主張した。そしてこの行動は世界平和と日本のためであり、大森と安倍の支援を要請する、と。

文意が破綻した手紙であり過剰な意味づけはできないが、それでも文中に「理由は世界経済の活性化」「不幸を最大まで抑えることができ」るといった言葉があることをどう考えればいいのか。思い起こすのは一九九九年から二〇一二年まで東京都知事であった石原慎太郎が「(障碍者には)人格があるのか」「(西洋人であれば)切り捨てちゃうんじゃないか」といった発言を重ねていたことだ。いま、この社会のどこまで功利主義的優性思想は深く根を降ろしているのか。私たちはいまや取り返しがつかないほど腐敗を放置してしまったのではないか。

腐敗はどこにでもある。憲法も、生活も、身体も、そのすべてが腐敗の危機にある。この危機は私たち一人一人を取り巻くミクロな次元において進行しているのだ。だから必要なのは「戦後日本と憲法」といった国民主義的な問題設定ではなく、私たち個人のきわめて微視的なレヴェルにおいて、憲法、生活、身体(その他もろもろ)を凝縮させ、そこに自らに固有の問題を掴みだすことではないか。そのうえで、お互いの問題をいかにコミュニケートできるかが、模索されなければならない。

総体として進行する、この腐敗をどう転換させるか。最後に一つだけ、イメージを提出して終わりたい。

日本語の「腐敗する」はCorrupt(退廃する)とDecay(有機物が腐る)の両方の意味を有するのだが、有機物の腐敗は「発酵」(Ferment)へと転じる。優れたパン職人や醸造家たちは、目には見えない空気中の微生物である酵母菌と協働しながら、酵素の働きによって発酵食品を作り出していく。酵母菌を育てるのは、大変な時間と繊細な感覚を要する作業である。しかし良い酵母菌は、規格化された食品には生み出せない固有性とヴァリエーションによって、私たちの消化器官を世界に開放する。もちろん一つのイメージに過ぎないが、この「発酵」過程から想像力を膨らませることはできないだろうか。

憲法を「腐敗」させる勢力に抗しながら、墨守するだけでなくみずからの手で「発酵」させていくことは可能か。あるいは、スクラップ・アンド・ビルドと労働力の使い捨てからなる「腐敗」した企業社会に対して対抗的に介入し、それを「発酵」過程へと変化させることは追求可能か。おそらく可能なはずだ。そしてそれは、個別のレイヤーではなく、レイヤー同士の相互作用のなかで進行するはずだ。総体の腐敗から、総体の発酵に向けて。そして発酵を介して成立する社会へ。私たちは少しずつ階段を上がらなければならない。

韓国における日本軍「慰安婦」研究、どこまで来たのか

2016年 夏号(通卷172号)

[論壇]韓国における日本軍「慰安婦」研究、どこまで来たのか

姜貞淑(カン・ジョンスク)成均館大学東アジア研究所研究員。韓国挺身隊研究所所長、日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会専門委員および調査官等を歴任。 wumright@hanmail.net

 

2015年12月28日、日韓政府の唐突な日本軍「慰安婦」 1 合意案発表は、大きな社会的関心を呼び起こした。以降、韓国外交部の空元気な成果自慢とは違って、日本政府は「強制連行の証拠はない」と国連で発言し、米国ハリウッドで国家広報の準備に拍車をかけるなど、 2 軍「慰安婦」をはじめとして独島〔日本名:竹島〕など国家間紛争を自国に有利に導いていくための戦略を遂行している。教育の領域でも、過去の暗い出来事を着実に消し続けている。これに反して韓国政府は、こうした日本政府の動きにきちんと対応できていないだけでなく、国内で女性家族部や韓国女性政策研究院などが行ってきたさまざまな調査研究への支援を中断ないし縮小した。

「慰安婦」問題真相糾明に対する政府の支援は、2011年8月に憲法裁判所の判決 3が出る前はかなり制限したかたちであったし、判決後も女性家族部が運営する「日本軍慰安婦被害者e-歴史館」事業と白書など、数えるほどしかなかった。少ないながらも研究者を支えてくれていた支援でさえ政府が打ち切ってしまった今、問題解決はおろか、真相糾明に対する意志があるのかさえ疑問である。

このような状況の中で、「慰安婦」問題の研究成果と課題を掘り下げて見ることによって今後の研究と問題解決の方向を見定めることは、喫緊の作業である。はたして日本と合意できるほど両国の問題意識は近いのだろうか。そして韓国政府の歩み寄りによって問題解決は可能なのだろうか。

本稿では、韓国の歴史分野の研究成果を中心に、日韓間の主要争点を明らかにしていく。歴史研究の成果を中心にアプローチする理由は、何よりも歴史研究が事実確認から始まるという点にある。いかなる学問領域でも客観的事実を共有することができれば、論点が明快になり、論争の解消や問題解決に一歩近づくことができるためである。

 

 

軍「慰安婦」問題提起と真相糾明作業

1988年、韓国基督教女性団体協議会が主催した国際セミナーで日本軍「慰安婦」問題が初めて社会的に提起された時、公の場に姿を見せた韓国在住の被害者はいなかった。当時は発掘された資料もそれほど多くなく、被害者の呼称も「挺身隊」を使用していた。韓国ではすでに植民地経験と日本から伝えられた情報などから軍「慰安婦」に対する一定のイメージ、すなわち数万人の幼い少女が日本の官憲の直接的な物理力によって動員されたという像がかなり強く構築されていた。

軍「慰安婦」よりも解放直後にメディア 4に描かれた女子挺身隊という用語が広く使用されてきたこともあり、関連の運動が始まった初期の1990年に組織された韓国挺身隊問題対策協議会(以下、挺対協)も「挺身隊」という用語を冠することになった。しかし、直後の1992年ごろになると歴史的用語として「慰安婦」、その性格としては性奴隷という表現が使用され始めた。

被害者が名乗り出ない中で、挺対協をはじめとする韓国の女性団体は日本政府の責任問題を提起したが、日本の右翼は「慰安婦は公娼」であるとか「民間業者がしたこと」などの発言を続け、日本政府も軍「慰安婦」の動員などに対する官の関与を一切否定した。この過程で日本の態度に怒りを覚えた金学順は、1991年8月、日本軍によってどのような被害にあったのかを公開証言し、以後、多数の被害者が韓国社会で名乗り出た。

被害者の登場によって、関連団体は被害者支援のための法制定運動を繰り広げる一方で、生存している被害者への聞き取り調査を行い記録し始めた。被害の真相を明らかにするという差し迫った要求のなかで1993年に『強制的に連れて行かれた朝鮮人軍慰安婦たち』証言集第1巻(出版社:ハンウル)が刊行された。軍「慰安婦」問題が外国メディアでも報じられて国際的に関心が高まると、中国の武漢などにも被害者が数名生存しているという知らせが韓国に伝えられた。これが中国の未帰還被害者調査につながり、『中国に連れて行かれた朝鮮人軍慰安婦』第1巻(ハンウル、1995年)が出版された。証言集の刊行は今なお続けられている。

こうした被害者の証言は、当時の文書資料がほとんど残されていなかった韓国において貴重な史料であり、被害者の問題を提起し解決するための運動のエネルギー源となった。また、公文書が被害者の経験のディテールを伝えてくれないだけに、被害者の視線でこの問題を見ることを可能にしてくれた。

他方で日本では1992年1月、歴史学者の吉見義明が軍慰安所の設置と「慰安婦」募集などに日本政府が関与したことを示す公文書を公開した。これを受けて政府の関与はなかったと主張していた日本政府は態度を変え、政府レベルの資料調査を開始した。吉見教授が集めた資料をもとに刊行された資料集 5と、日本政府が1992~93年に調査・公開した公文書が韓国に伝わり、被害者の口述資料とともに文書資料に基づいた歴史研究が進められるようになった。

 

 

主要テーマ別研究成果

日本軍「慰安婦」問題は、韓国国内で呼び起こした社会的関心の大きさに比して、歴史研究は手薄である。そんななかで積み上げられてきた成果がないわけではない。時期別に概観してみると、初期には被害者が出現してまもなく行われた集団作業の結果である先述の証言集と、『日本軍「慰安婦」問題の真相』(挺対協真相調査研究委員会編、歴史批評社、1997年)が刊行されている。第二期には「2000年日本軍性奴隷戦犯女性国際法廷」の設立に関連して『日本軍「慰安婦」問題の責任を問う』(挺対協編、プルピッ、2001年)などが出版され、口述方法論にも進展が見られた。第三期は2011年の憲法裁判所判決後、政府機関の支援で複数の研究者による多様な研究がおこなわれた時期である。現在、政府の支援のほとんどは中断されているが、この時期にまかれた種は研究者の拡大を促した。以下では日本軍「慰安婦」問題を明らかにするときに重要な歴史的テーマおよび日韓間の主要争点を考察していく。

 

 

軍「慰安婦」制の樹立と「慰安婦」動員

当初、日本の右翼は日本政府の関与を否定していたが公文書の発見後に立場を変え、日本政府や軍が軍「慰安婦」動員に関与し緊密なつながりを持っていたのは、戦時の特殊状況で「慰安婦」の輸送および保護のためにとった措置に過ぎないのであって、悪徳紹介業者による女性誘拐を警察が調査したという内容の新聞記事を例にとって、警察が軍「慰安婦」の連行を防いだと主張した。さらに、被害者が初めは業者に連れ去られたと言っていたのに後になって警察に連れて行かれたと証言した点などをこと挙げて、口述記録は信じられないと批判した。 6 日本の右翼の主張の核心は、「狭い意味での強制連行」の有無であって、これに関する公文書資料はなく、合法的手続きによって女性たちを動員した証拠はあるので、強制連行を証言する被害者の口述は信じることができないというものである。これについては筆者が既に具体的に反駁した論考 7があるので、ここでは簡単に言及するにとどめておく。

韓国における初期の研究は、日本政府の責任を否定するか低評価しようとする日本の右翼と政府の態度に対応するかたちで、日本の国家責任などを糾明することに焦点を当て、日帝の政策の植民地性と反人道的側面を集中的に取り上げた。論争が集中した朝鮮人軍「慰安婦」動員を初めて扱った鄭鎮星〔チョン・ジンソン〕は、被害者の口述に基づいて分析し、争点である軍「慰安婦」の連行者について、軍・警察・行政職員といった日帝の権力機関の末端を担う者たちの割合が相対的に高かったことを明らかにした。 8 最近の研究でも、口述を軸に据えたものは同様の傾向を示す。 9 これは口述のもつ特徴、すなわち社会性と可変性が反映された結果であると判断される。

尹明淑〔ユン・ミョンスク〕は、2003年に日本で出版された著書で日本軍「慰安婦」制度の設立背景と運営体系、日本政府と軍の論理、朝鮮人軍「慰安婦」の動員(徴募)背景とそのプロセスを被害者の証言をもとに分析する一方で、日本の戦時体制研究を参照しつつ紹介業者が生み出される過程など、朝鮮女性の動員の様相を具体的に解明した。この研究によって朝鮮半島で軍「慰安婦」が動員されるシステムが詳細に明らかにされた。 10

朝鮮総督府や朝鮮にあった日本軍(「朝鮮軍」)など、後方の権力機関が現地の軍といかなる関係を結び、軍「慰安婦」を動員したのかについての分析は、まだそれほど行われていない。河棕文〔ハ・ジョンムン〕は、日本軍の規定に従って軍慰安所が兵站施設化された点と、(準)軍属または軍従属者として扱われていた慰安所業者、軍の「慰安婦」に対する扱い方などを考察した結果、軍慰安所システムが日本国家レベルで樹立・運営されたことを明らかにした。 11 最近、金鍾泌〔キム・ジョンピル〕が自身の回顧録で、軍属が女性たちを生産機関に送ってお金を稼げばよいとだまして募集していたのをその目で見たとし、女性の一部は生産機関に配置されただろうが、ほとんどは一線に送られて軍「慰安婦」にされたと断言した。 12 もう少し具体的な状況を明らかにする必要はあるだろうが、中国の武漢や漢口、ミャンマー、インドネシアなど、一線にあった慰安所業者が(準)軍属の地位をもって朝鮮で女性を動員した事例がいくつか発見されており、金鍾泌の証言と類似した状況が実際にもあったであろうと推測できる。そして当時、女性動員と関連して1930年代後半に「巡査が17歳以上の処女を調べて多数の負傷兵に処女の血を注入するために処女を募集して満州方面に連れて行くとか、40歳以下の寡婦と処女を募集して戦場に送り、兵士に慰安を提供して、戦争をしている場に寡婦を連れて行って青樓女郎にする」などの流言飛語が飛び交っていた。これは当時、「慰安婦」を大量に動員する過程で出た話であることに違いない。 13

現地の日本軍と朝鮮総督府、「朝鮮軍」はどのように連携して女性たちを動員したのか。これについては特に近年公開された黒竜江省と吉林省の档案館(記録保管所)の資料に注目する必要がある。この資料は関東軍特別演習時期(1941年)に関連したものが多い。日本の関東軍はそもそもこの時期に「慰安婦」2万人を「朝鮮」から動員する計画をもっており、実行過程で朝鮮人業者を媒介に黒竜江省で朝鮮人女性2千人を動員した。吉林省の資料によれば、業者でさえ無差別な動員の仕方に問題を感じていた。 14 内モンゴル駐屯日本軍は1945年、朝鮮総督府に「慰安婦」募集資金を送っていた。 15 ミャンマーには1942年、数百人が四次慰安団として渡ったが、これは南方軍が朝鮮軍司令部の協力を得てなされたものである。安秉直〔アン・ビョンジク〕は、軍慰安所業者の日記を分析して、こうした動員は「広い意味での強制動員」であり、「戦時動員体制の一環」であると評価した。 16

このように、日本政府の総体的支援のもとで軍「慰安婦」制が稼働したということはすでに確認されているが、日本の右翼は、朝鮮の場合、「狭い意味での強制連行」を示す公文書がないとして言い逃れてきた。中国やインドネシアなどでは日本軍の「狭い意味での強制連行」がすでに確認されている。それらとは異なり植民地とした朝鮮では、徴用という課題を抱えた日帝が公然と奴隷狩りをするかのごとく軍「慰安婦」を動員することが一般的であっただろうとは考え難い。 17 日本の右翼の主張どおり国家権力が直接に物理力を行使したケースだけを強制動員とみなせば、国家権力が関連業者や(準)軍属に女性動員を要求し、それに必要な費用を支払って就業詐欺、誘拐、脅迫と欺瞞、人身売買などのかたちで女性を動員したことの不法性については目をつぶることになってしまう。日帝の権力機関が業者をつうじて女性を動員する過程で行われた不法行為には背を向けたまま、組織的連携がなされていない「下っ端」の人身売買業者を検挙したとして免罪符をもらおうとすることは、歴史をきちんと直視しない態度に過ぎない。 18 日本軍「慰安婦」制は動員現場だけでなく、そのシステムと輸送および軍慰安所の監督・運営、敗戦時の対応など、全般を総じて検討する必要がある。

 

 

軍「慰安婦」の生活

日本の右翼は先に言及した米国の新聞広告で、軍「慰安婦」が公娼制度下で行われ、これらに対する処遇などを見ると性奴隷ではなかったと主張した。軍「慰安婦」の生活について加害者の視点からアプローチすることはできるだろうが、それはあくまで被害者の視点が前提されてこそのものである。こうした点から、日本軍出身者の口述および回顧談を分析することで日本軍の意図や個々の軍人の軍「慰安婦」認識などを考察した安姸宣〔アン・ヨンソン〕の研究 19は非常に重要である。最近、裁判や論争の中心にいる朴裕河〔パク・ユハ〕が扱った軍「慰安婦」問題、とりわけ「慰安婦」と軍人の関係といったテーマは、安姸宣によって既に深く分析されている。

最近、古橋綾〔フルハシ・アヤ〕は「日本の戦争責任資料センター」が収集した回顧録258冊から、日本軍出身者が兵士の性、性処理装置、「慰安所」に関していかなる対応をしていたのかを分析した。 20 古橋の論考がとりわけ重要なのは、軍人が言及した内容を単に引き写すのではなく、回顧録が出された時期や当該軍人の軍隊内での位置などを分析的に考察した点にある。被害者か加害者かを問わず口述資料を批判的に扱うことは、史料を扱うさいにとても重要な態度である。 21

軍「慰安婦」および慰安所研究とともになされるべきは、軍隊史研究である。筆者や河棕文などがこれを試みた例はあるが、 22 日本軍事史研究者の層の薄さから有機的結合までには至らなかったなかで、徐民教〔ソ・ミンギョ〕がこの問題を本格的に提起した。 23 軍「慰安婦」および慰安所の状態は地域差が大きく、現場の状況を知るためには現場と密接な戦況と日本軍の動向および移動を把握することが肝要である。今後、さらに活発な研究が期待される。

 

 

帰還と未帰還、そして地域および名簿研究

東アジアから太平洋諸島まで拡張された戦域の最も末端でも朝鮮人軍「慰安婦」の存在は確認される。日帝が敗退したのちに連合軍に与えられた重要な課題は、それらの地域の隅々にまで動員された人々をどのように帰還させるのか、であった。動員が長期にわたって行われたのとは違って、帰還は短期間で集中してなされた。帰還状況は地域によってかなり異なるが、日本居住者を除けば1946~47年に集中していた。海外に強制動員されて現地に居住していた一般人の帰還については、国民大学韓国学研究所が相当期間、集中的に扱って基礎資料を作った。 24 しかしそこでは軍「慰安婦」の帰還に関してはそれほど論じられていない。

軍「慰安婦」の帰還を軸に扱った論考としては、初期に門を開いた方善柱〔パン・ソンジュ〕 25をはじめとして姜英心〔カン・ヨンシム〕、 26筆者 27などの研究がある。帰還時期の具体的な地域状況を分析したものとして、インドネシアのスマトラ島南部の都市パレンバンの事例を扱った拙稿 28が参照に値する。

オランダの植民地だったインドネシア・パレンバンやジャカルタなどの地、そしてイギリスの植民地であり東南アジア陸軍管轄地域の多数の帰還者が集結していたシンガポールには、日本敗戦直後に日本軍に所属していた朝鮮人軍人・軍属・労働者などが多く集まった。この現場は、日本軍、連合軍、現地人のあいだで故郷行きの船を待つにとどまらない、ダイナミックな空間だった。

パレンバンでは旧慰安所とその近辺が集合場所となった。その過程で軍慰安所の業者だった人物がその地域の朝鮮人会の会長になることもあった。中国・上海では軍慰安所業者が韓国婦女共済会会長になり、「慰安婦」を救援したかのように国内外のメディアに誤報されたことがあった。 29 また、パレンバンに集まった朝鮮人のなかには、インドネシア独立闘争にまい進したり、連合軍によって処罰されることを恐れて現地社会に隠れたりした事例も確認されている。 30 終戦と帰還のあいだの時期、日本軍は陸軍軍人・軍属名簿である留守名簿に軍「慰安婦」女性を看護婦として記載し、一部の朝鮮人はまた別の主体となって名簿を作った。帰還時期のこうしたダイナミックな状況は、記録と口述資料をつうじてこそ捉えられる。この点で、関連資料を調査・収集した日帝強占下強制動員被害真相究明委員会の研究成果は非常に重要である。 31 帰還だけでなく、未帰還をめぐる研究も注目すべきである。未帰還問題は、当時被害者たちが晒されていた状況、心理状態、韓国人の関心事がどのあたりにあったのかなどを明らかにするという点で重要であり、また、人権の観点からも必ず掘り下げるべきテーマである。

日本軍「慰安婦」問題が本格的に提起される前の1970年代から、未帰還者として沖縄の裵奉奇〔ペ・ポンギ〕、タイの盧壽福〔ノ・スボク〕の存在が国内に知られていた。しかし単発的な記事で言及されただけで、未帰還問題をきちんと扱うようになったのは軍「慰安婦」問題が本格的に提起された1990年代以降である。軍「慰安婦」に対する関心の広がりに大きく寄与した外国メディアの助力と、各国の活動家の連帯によって、中国の武漢、上海、東北地域などで軍「慰安婦」被害者を探し出したのである。これに加えて2000年以降は韓国政府の支援もあった。こうした未帰還者調査事業との関連で、中国と沖縄で動員被害調査が詳細になされた。 32

軍慰安所の地域的分布に関しては筆者の論考 33があり、最近、東アジア歴史財団が日本のWAM(Women’s Active Museum on war and peace、女たちの戦争と平和資料館)の協力を得て作った「日本軍慰安書マップ」がある。各国・各地域の被害者と軍人・軍属および住民の口述や回顧録、公文書に基づいて作成されたもので、文献情報も提供されている。 34

地域調査は「2000年日本軍性奴隷女性戦犯法廷」と未帰還者調査が契機となり、沖縄、中国、太平洋諸島、サハリンなどで行われた。沖縄は朝鮮人軍「慰安婦」および軍属に対する研究が比較的進展している地域である。川田文子が1970年代から80年代にかけて被害者のうち生存していた裵奉奇の聞き書きをまとめた『赤瓦の家』(韓国語版はオ・グニョン訳、クムギョ出版社、2014年)が出版された。韓国では2000年以降に数度にわたる現地調査を実施し、それをまとめた報告書と沖縄の軍「慰安婦」および軍部に対する諸研究 35が出されている。こうした関心の中で最近、沖縄各島の軍慰安所に関する住民の記憶を中心に分析した洪玧伸〔ホン・ユンシン〕の博士論文も日本語で出版された。 36 地域研究は被害者だけを研究するのではなく、その地域に住む人々と地域の歴史を合わせて考察する作業になる。それゆえ、朝鮮半島の片側に閉じ込められた私たちの制限された視野を拡張して歴史に対する理解を広げる助けになる。

帰還および各地域に対する研究とともに見るべきは名簿である。朝鮮人女性(「慰安婦」)名簿が発掘された地域は、沖縄、上海、タイ、ミャンマー、フィリピン、インドネシア、太平洋諸島などである。名簿の発掘と研究は、沖縄とフィリピンに滞在していた朝鮮人女性に対する方善柱の研究 37によって開始された。インドネシアに関する研究成果 38も重要である。インドネシアに関しては、留守名簿をはじめとして朝鮮人が作ったパレンバン朝鮮人会の名簿など、計361名の女性の名を明らかにすることができた。さらにこの地域にいた軍人・軍属・労務者などの資料(手帳や回顧録、民間作成名簿、写真など)も発掘され、軍「慰安婦」研究に大きく寄与した。この地域では、敗戦時に現地にいた軍「慰安婦」を看護婦とすることで、連合軍が進駐する際に軍「慰安婦」の隠ぺいが試みられていた。インドネシアでは軍「慰安婦」が多様な民族で構成されており、軍慰安所のタイプもさまざまであった。とりわけオランダ軍が戦犯裁判を開いたこともあり、日本軍が物理的強制によって現地人を軍「慰安婦」にした具体的事例が文献資料にも残されている。裁判記録から、連合軍の一員だったオランダ軍が軍「慰安婦」制をどのように認識していたのかも見ることができるが、研究はまだ着手されたばかりの段階にある。

名簿は、そのほとんどが帰還と関連付けられて現地で作られた。名簿を、誰が、なぜ、どのように作ったのかを明らかにすることは当時の状況を理解するためには重要なのだが、簡単なことではない。名簿は、作成主体、時期、目的などによって記載内容にもかなりの違いが出る。名簿に軍「慰安婦」被害者であることが確実に言及されていれば事は簡単であるが、たいていはさまざまな状況を考慮して判断せざるをえない。当時の地域状況や作成意図が明確に分からない場合、名簿に記載された女性を軍「慰安婦」と判断するには、かなりの関連資料や傍証史料が必要である。しかしながら名簿は現地にいた女性たち、カミングアウトしていなかったがゆえに見えなかった女性たちの存在をあらわにし、時空間を確定してくれると同時に、各地の「慰安婦」の数を推定する情報にもなるという点で、とても重要である。このほかにも軍「慰安婦」関連用語の変遷、公娼制と軍「慰安婦」制の関連性、軍「慰安婦」制の運営に共謀した企業や、企業「慰安婦」制など、重要なテーマと研究があるが、ここでは紙面の都合上省略する。

 

 

今後の課題

2011年に憲法裁判所の判決が出てから、関連研究者の層が厚くなり、昨年12月以降、韓国政府の支援のかなりの部分が打ち切られたことがむしろ契機となって「日本軍「慰安婦」研究会」が新たに立ちあげられ、こぢんまりとした小さな研究会があちこちにできている。

今後、一層の進展が見られればと思われる課題としては、まず、植民地性と民族問題に集中していた研究観点を、ジェンダーや階級といった観点へと押し広げていくことが挙げられる。現在、日本軍「慰安婦」研究がゲットー化されている側面があるが、研究者自身がそういった状況へと自らを追い立てた部分がなくもない。植民地性を明らかにすることに軸足を置きすぎて、軍「慰安婦」の被害者個人の認識、家庭史、慰安所生活、敗戦後の人生などを多角的に分析するまでには至らなかったのである。中国のフェミニスト作家である丁玲の作品を媒介に、戦時期に軍「慰安婦」として動員された華北共産党員出身の被害女性を扱った李宣坭〔イ・ソニ〕の論考 39が、私たちを新たな試みへと一歩踏み出させる勇気を与えてくれるのではないかと思う。

第二に、軍「慰安婦」制の運営のための資金の流れを明らかにする必要がある。日本政府から現地軍へ、現地軍から業者などへと流れていったことが部分的に確認されてはいるが、日本軍が軍「慰安婦」制の運営のためにどのような資金を確保し支出していたのか、その資金がどのように循環していたのかについての研究が求められる。

第三に、名簿との関連で地域研究と、軍「慰安婦」の数の推定作業が挙げられる。名簿によって各地にいた軍「慰安婦」の存在を確認できるが、そこからもう一歩進んで、当該地域の日本軍の状況などと合わせみて軍「慰安婦」の数を把握する基礎資料として活用できる。八万から二十万、あるいはそれ以上という初期の私たちの主張では、軍「慰安婦」の規模が二万で日本人がその五分の二を占めていたという日本の右翼の主張に、きちんと対応できない。

第四に、口述に対する理解と分析の作業である。弱者の意見や立場を反映する歴史資料はほとんど残っていないために、これまでも弱者を対象にした研究において口述は大きな比重を占めてきた。初期から軍「慰安婦」の口述に関して多くの議論が展開されており、 40特に証言集第4巻(『強制的に連れて行かれた朝鮮人軍慰安婦たち』)に携わった者たちは、この本をつくっていく過程での意見交流と経験をもとに、口述の意味、一般人がきちんと聞くことのできない被害者の声をどのように文字化すべきかといった、口述をめぐる議論をかなりのレベルに押しあげた。 41 しかしながら口述は方法論だけではなく、歴史と被害者(環境、意図や心情など)に対する理解の深さが非常に重要なものとして作用する。よい口述採録法と口述者の理解のための議論は、今なお進行中である。

歴史研究は資料の発掘によって大幅に進んだが、この問題において重要な資料所蔵場所が日本であるということ、そして具体的内容を示す資料のかなりの部分が未公開であることが難点である。この問題は、実際、日韓政府の関係が変化する前には解決困難であった。資料発掘と同様に重要なのは、発掘した資料をどのように整理して研究者が共有できるようにするのかであるが、このために国内関係機関はもう少し努力する必要がある。

昨年12月28日、日韓政府の合意がこの問題に対する認識の共有もままならないまま終わってしまったがゆえに、問題解決はおろか不満と誤解、そのほかにもさまざまな問題が発生する充分な余地を残してしまった。日韓間の歴史論争のなかでも軍「慰安婦」問題ほど、大衆に感情的に受け止められている問題は他にないといえるだろう。そうした問題であればこそ、社会メンバーが納得することのできる充分な議論のプロセスが必要である。東アジアの平和と日韓関係の持続的発展のためにも、過去に起こった不幸な出来事を直視し、理解するための議論が拡がっていくべきである。

 

翻訳: 金友子(きむうぢゃ、立命館大学)

Notes:

  1. 「慰安婦」は日本軍が使用していた歴史的用語であり、その本質は性奴隷だと言える。ここでは歴史用語としての表現は活かすが、日本軍に慰安を与えるという意味の慰安婦ではなく暫定的表現として使用した。
  2. 「『慰安婦強制連行の証拠はない』…日本、国連に公式立場提出」『京郷新聞』2016年1月31日;「日、来年ハリウッド中心部に広報拠点『ジャパンハウス』オープン」『聯合ニュース』2016年3月11日。
  3. 2005年、日韓協定に対する韓国政府の評価に基づいた被害者と市民団体の憲法訴願に対して、憲法裁判所は日本軍「慰安婦」問題について日韓政府間の認識が異なるので1965年の請求権協定に対する議論が必要とされるが、それに向けての努力をしない不作為は違憲であるとして両国間の協議を注文した。
  4. 『ソウル新聞』1946年5月12日、『中央新聞』1946年7月18日など。
  5. 吉見義明『従軍慰安婦資料集』大月書店、1992年。
  6. 秦郁彦『慰安婦と戦場の性』新潮選書、1999年、120頁。日本の右翼は歴史事実委員会の名で米紙『ワシントンポスト』に「THE FACTS」(2007.6.14)を、米ニュージャージー州の日刊紙『スターレッジャー(The Star-Ledger)』に「Yes, We remember the facts」(2012.11.4)という意見広告を出したが、それらに彼らの主張の核心を見ることができる。
  7. 拙稿「日本軍「慰安婦」問題関連主要動向と争点」韓国女性政策研究院編『日本軍「慰安婦」被害者問題解決のための総合研究1』韓国女性政策研究院、2015年。
  8. 鄭鎮星「軍慰安婦強制連行に関する研究」『挺身文化研究』通巻73号(1998)、韓国挺身隊問題対策協議会『日本軍「慰安婦」証言・統計資料集』女性部発刊資料集、2001年。
  9. ハン・ヘイン「韓国の日本軍「慰安婦」被害者証言の歴史性」、前掲『日本軍「慰安婦」被害者問題解決のための総合研究1』。
  10. 韓国語版は尹明淑『朝鮮人軍慰安婦と日本軍慰安所制度』チェ・ミンスン訳、イハク社、2015年。
  11. 河棕文「日本軍慰安所体系に対する国家関与の歴史的考察」『韓日間歴史懸案の国際法的再照明』東北ア歴史財団、2009年。
  12. 金鍾泌『金鍾泌証言録1』ワイズベリー、2016年、234-39頁。
  13. 拙稿「日本軍「慰安婦」制と朝鮮人女性動員」、前掲『日本軍「慰安婦」被害者問題解決のための総合研究1』、91-98頁。
  14. 同上。
  15. 方善柱「内モンゴル張家口日本軍の慰安婦収入」『挺身隊研究所消息』第30号、韓国挺身隊研究所、2001年。
  16. 安秉直翻訳・解題『日本軍慰安所――管理人の日記』イスプ、2013年。
  17. 徴集の強制性については韓国でも一般社会と研究者の間の認識、そして研究者間での認識のギャップが非常に大きい。
  18. 前出の拙稿で言及したように、新聞には大規模の人身売買犯に対する法的処罰の資料は発見されていない。さらに国家記録院に所蔵されている日帝期の判決文を確認した結果、軍「慰安婦」として動員された場合に適用可能な国外移送罪で処罰された事例は至極少ない。なかでも「慰安婦」としての移送と直接関連したものは一件に過ぎない。これは、日帝の組織的隠ぺいを反証すると考えられる。
  19. 安姸宣『性奴隷と兵士づくり』サミン、2003年。
  20. 古橋綾「元日本軍軍人の観点からみる日本軍「慰安婦」」、前掲『日本軍「慰安婦」被害者問題解決のための総合研究1』。
  21. 日韓両国で論争を巻き起こした朴裕河の『帝国の慰安婦』(プリとイパリ、2013年)が訴訟にまでなった背景には、著者が被害者の痛みや当時の状況に対する認識もないままに、機械的に資料を利用した点にある。
  22. 拙稿「日本軍慰安所の地域的分布とその特徴」『日本軍「慰安婦」問題の真相』;河棕文、前掲論文。
  23. 徐民教「中日戦争と日本軍の展開過程」、前掲『日本軍「慰安婦」被害者問題解決のための総合研究1』。
  24. 国民大韓国学研究所編『韓人帰還と政策』(全10巻)。これと関連して帰還政策とその状況についての論文もかなり多く発表された。
  25. 方善柱「米国資料に現れた韓人「従軍慰安婦」の考察」『国史舘論叢』第37集(1992年)、「日本軍「慰安婦」の帰還――中間報告」、前掲『日本軍「慰安婦」問題の真相』。
  26. 姜英心「終戦後中国地域「日本軍慰安婦」の行跡と未帰還」『韓国近現代史研究』第40集(2007年)。
  27. 拙稿「日本軍「慰安婦」制の植民地性研究」、成均館大史学科博士学位論文、2010年。
  28. 「第二次世界大戦期インドネシア・パレンバンに動員された朝鮮人の帰還過程に関する研究」『韓国独立運動史研究』第41集(2012年)。
  29. 張碩訓「解放直後上海地域の韓人社会と帰還」(『韓国近現代史研究』第28集、2004年)も上海居住僑胞の孔敦について、婦女共済会会長であり終戦後に軍「慰安婦」被害者を救済した人物としているが、彼は慰安所業者だった。現地の事情を詳細に検討すべきであることを教えてくれる事例である。
  30. 村井吉敬と内海愛子の『赤道に埋められる』(キム・ジョンイク訳、歴史批評社、2012年。日本語原本は『赤道下の朝鮮人叛乱』勁草書房)もジャワ島のこうした状況を扱っている。
  31. 2004年に設置された「日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会」(強動委)では、軍「慰安婦」のみならず軍人・軍属などにも聞き取りを行っているが、これらは「慰安婦」の女性たちと同じ空間で生活していたため、非常に重要な情報を提供してくれた。強動委の業務は2010年から「対日抗戦期強制動員被害調査および国外強制動員犠牲者など支援委員会」が引き継いだが、これも今年、完全に閉鎖される予定である。これらの委員会が生産した資料は非常に貴重な研究資料であるが、現在、一般公開はされていない。
  32. 韓国挺身隊研究所編『2002年国外居住日本軍「慰安婦」被害者実態調査』女性部、2002年。
  33. 「日本軍慰安所の地域的分布と特徴」。
  34. http://www.nahf.or.kr/wianso-map/renewal/index.htm
  35. 韓国挺身隊研究所編、前掲、2002年;拙稿「日帝末期沖縄・大東諸島の朝鮮人軍「慰安婦」たち」『韓民族運動史研究』第40集(2004年);拙稿「日帝末期朝鮮人軍属動員:沖縄への連行者を中心に」『史林』第23号(2005年)。
  36. 洪玧伸『沖縄戦場の記憶と「慰安所」』インパクト出版会、2016年。
  37. 方善柱、前掲。
  38. 日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会『インドネシア動員女性名簿に関する真相調査』(2009年);拙稿「インドネシア・パレンバンの朝鮮人名簿に見る軍「慰安婦」動員」『地域と歴史』第28集(2011年);拙稿「第二次世界大戦期インドネシアに動員された朝鮮人女性の看護婦編入に関する研究――留守名簿を中心に」『韓日民族問題研究』第20集(2011年)。
  39. いくつかの論考があるが、近著として『丁玲――中国フェミニズムの旅程』ハンウル、2015年。
  40. 韓国挺身隊研究所「座談会:私たちはなぜ証言の採録をしてきたのか」『強制に連れて行かれた朝鮮人慰安婦3』;コ・ヘジョン「日本軍「慰安婦」被害者らの証言を記録して」『実践文学』2001年。
  41. 梁鉉娥「証言と歴史記述――韓国人「軍慰安婦」のアイデンティティの表象」『社会と歴史』第60号(2001年);キム・スジン「トラウマの表象とオーラルヒストリー――軍慰安婦証言のアポリア」『女性学論集』第30号(2013年)などを参照。

総選挙後、市民政治の道を問う

2016年 夏号(通卷172号)

総選挙後、市民政治の道を問う

鄭鉉坤(チョンヒョンゴン):政治学博士。細橋研究所の選任研究員。市民社会団体連帯会議の政策委員長。共著として『天安艦を問う』がある。Email:jhkpeace@empas.com

<読後感>
この間、戦後日本の基軸として機能してきた「平和主義」は、今や東アジア冷戦70年の歴史に金縛りにされている。日本独自での自己変革の可能性がほぼ消滅した今日、著者のような韓国の市民運動家との「対話」を通じ、日韓両国社会の現状認識と相互理解を深めていく必要がある。

何と、またもや政党の時代なのか。4月13日総選挙後、すっかり「起―承―転―政治」となった騒ぎが、この時期の特徴を証言する。政党政治の軽さは信じられないほどで、市民が復元させたこの政治現象を、私たちは不安な気持ちで眺めている。

今回の総選挙をめぐり、みんなが意外の結果だと語っていたが、市民の胸にしこった痛みと憤怒を考えれば、それほど驚くべき結果でもないだろう。そうした点でみれば、だまされ続けているという心情で政党を眺めるだけでは物たりない。政治変化に向けた市民の叫びに比べ、対策のない市民社会を叱咤するのがまず先ではなかろうか。

「何かでもする人」、今回の4・13総選挙を準備しながら、市民社会団体が自らを表現した言葉である。この言葉には二つの意味が含まれている。一つには切迫感である。失政をおかしても弱体な野党とマスコミの掌握によって選挙で圧勝を重ねる政府と与党を想像するのはあまりにもつらいことなので、「何かでも」やるべきだった。 1 また、無力感もあった。朴槿恵政権を審判すべきだという課題を掲げながらも、とにかく選挙で政党に影響を及ぼす方法がないのが胸苦しい。それでも「何かでも」すべきなら、それは確かな「何か」がないことを吐露するに他ならない。

それに反し、政党体制はその支離滅裂さにもかかわらず、今回の選挙を通じてまたもや生き残った。もし政府与党が自ら豪語したレベルの議席を獲得したならば、私たちの政党体制は亀裂を超えて破壊レベルに達したかもしれない。それは政府を牽制して国民の声が収斂される議会空間の萎縮へと至っただろう。だが意外にも、市民が政党体制を生き返らせた。国会はふたたび意味ある民主政治の制度的な役割を果たせるようになった。しかし、今の政党が民主政治に向けた市民の望みに適うかどうかは依然疑問である。この間、数多くの革新をわめきながら、脆弱な政党構造を克服できなかったからである。そうした点でみれば、自ら答えを見つけがたいのもまた政党である。

 

市民社会の政治企画の転換

李明博(イ・ミョンバク)政権の二年目、民主の危機が民生の危機を煽っていた2009年頃、市民社会は政府の横暴を退けるために一連の政治企画を準備した。 2 この政治企画は創党を目標にするとか、または政治を対象化して市民社会の直接的な政治介入の力を構成するという点で新しかった。この企画の第一次目標は2010年6月の地方選挙であり、次いで2012年総選挙と大統領選挙も念頭においた。こうした問題意識を込めた政治言説が市民政治と連合政治であり、有力な道具として「希望と対案」が同年10月に創立された。当時の論議で市民社会が掲げた論点が三つある。第一は既存政党の中で政治ブロックを志向しない独立的な企画という点、第二は既存の政治的中立というテーゼを超えるという点、そして第三はそれでも新たな政党を図らずに、むしろ新たなビジョンと勢力、メディア、政治と社会組織を再構成すべき様々な空間を生み出すというものだった。 3 ここで「希望と対案」は、政党と市民社会を組み合す一種のかすがい的機能を遂行する機構として政策連合、価値連合という、少し意味ある政治連合を図った。こうした政治企画は、2010年地方選挙で与野党の1対1対決構図を描いた候補単一化としてうまく作用し、選挙勝利を導いて光を放った。 4

また2011年8月、呉世勲(オ・セフン)ソウル市長が無償給食の賛否を住民投票にかける無理な手法の末に市長を辞め、朴元淳(パク・ウォンスン)弁護士がソウル市長選挙に出馬する。当時、市民社会人士である朴元淳が民主党の朴暎宣(パク・ヨンソン)議員を下してソウル市長の野党統一候補になる過程は、安哲秀(アン・チョルス)に代表される新政治に対する期待と符丁を合わせ、既存の政治と政党体制への市民の強い拒否感が表れたものだった。結果的に、朴元淳のソウル市長当選は市民社会のイニシアティブに基づいた連合政治という政治的企画が一つの頂点に達したことを知らしめた。

当時、市民社会の政治企画とは別個に市民社会と政党の統合を模索する「市民政治」活動も活発だったが、彼らは国民の命令、進歩統合市民会議、民主統合市民行動、市民主権、「私が夢見る国」 5などの名前を掲げた。

2009年から続いた連合政治の努力は二つの流れに集約される。一つは2012年1月、市民社会人士の一部と第一野党が合流した民主統合党の創党、第二野党と市民社会人士の別の一部が合流した統合進歩党の創党がそれである。民主党内の政治ブロックや新しい政党の計画という点で、この結果は市民社会の政治企画に適うものではなかったことがわかる。もう一つは市民社会の元老・重鎮と「市民政治」団体の代表で構成された「希望2013・勝利2012円卓会議」である。この円卓会議は野党四党の代表とともに、10・26ソウル市長選挙に共同対応するという合意をつくりあげ、その余勢を駆って野党と市民社会で共同して2013年ビジョン作業を率い、「希望と対案」後の連合政治の橋頭堡として活躍した。しかし、2012年民主統合党と統合進歩党という野党体制ができた後、その活動領域は主にメッセージの発信にとどまるようになる。 6

当時、市民社会の政治企画は半分の失敗といえる。市民が政治に参加できる多様な空間をつくりだせなかったからである。2012年、安哲秀候補のキャンペーンまでを政党領域と理解するなら、積極的な市民社会の運動勢力が政党内に急速に吸収される流れがみられる。その上、そうして形成された政党は自らの政治的利益と政治工学にかたよって2012年の重要な二つの選挙で市民に大きな失望だけを残した。結局、政治行為者としての市民は市民政治の不在の中で、相変わらず個人としてのみ存在していたのである。 7

地方自治体と市民自治の成長

2009年市民社会の政治企画に半分の成功があるなら、それは2010年地方選挙で野党勢力が得た勝利だった。この選挙で忠清南道と慶尚南道、江原道で地方自治体のトップ交代が実現した。李明博政権がみせた民主主義の逆走への批判的性格が強かった上に、当時の地方選挙には市民の主権的な行動意志が強く刻まれた。市民意識の成長と地方自治体の民主的な構成をより明確に示したのは、2011年秋のソウル市長選挙だった。無償給食という議題の政治化が地方自治体の争点として再点火された条件下で市民意識が大いに高揚したのである。2012年慶尚南道金斗官(キム・ドグァン)知事の突然の大統領選への出馬で、慶南道民の自治の道が後退する痛みを経験したが、 8 地方自治体に参加して責任も担うという市民自治の意味は2014年の選挙でも維持された。2014年の地方選挙では安煕正(アン・ヒジョン)忠清南道知事と朴元淳ソウル市長の再選も注目すべきことだが、与党側人士である南景弼(ナム・ギョンピル)京畿道知事と元喜龍(ウォン・ヒリョン)済州道知事が連合政治・協治を論じ、市民自治の形成に有利な環境がつくられた点が注目される。

地方自治体レベルで市民自治の意味は、地域共同体運動と福祉運動が結合する現場で現れた。京畿道を例にとれば、「あたたかく幸せな共同体」略して「タボㇰ共同体」を、行政と市民が共同責任で構成していく動きが際立つ。タボㇰ共同体は市民の生活の場である地域共同体の持続可能性を志向しながら、その核心要素である福祉問題をめぐって国家あるいは地方自治体の財源投入という伝達体系に局限せずに、地域自らが生活経済をつくりだすのに関心を寄せた。2015年12月に開催された京畿道のタボㇰ共同体祭りは31の市・郡の地域活動家と社会的経済の関係者1004人が集まり、別名「天使ネットワーク」を構成し、自治体行政に参加しながら責任を分かちあう市民自治の一形式を示している。

これに比してソウルの場合は、近隣単位としての洞と福祉の連携が相対的に強調される。ここでは、いわゆる国家公共性の危機の対案として、生活公共性または地域公共性が強調される。生活公共性は私的な生活領域を抑圧したり、解体する国家権力と市場権力に対抗する防御壁として、市民社会と地方自治体の公共性を構築する新たなフレームとして提案され、 9 「マウル(村)」がその実現単位になる。そしてソウル市は「移動する地域福祉センター」と「マウル計画」、「マウル総会」を掲げる。ここでマウル総会とは、個人の必要と欲求を基盤にして共通の議題に合意し、メタ議題を描き出すマウルの「公論場」になるわけだ。このマウル公論場を通じて、住民は国家共同体の主権者である市民に生まれ変わるのである。 10

市民が自治体運営に直接参加して責任を担う場合、市民意識がより成熟するという点は明らかである。特に住宅、保健、交通、教育サービスのような重要な公的日常が国家よりも地方自治体を通じてより多く左右されるならば、地方はすでにそれ自体で政治共同体として機能するようになる。そういう点で、市民は地方で政治を始めるようになったといえる。

 

政党と市民社会の関係の再構成

市民社会と政党は、実体としての政治空白と制度としての政治回復が繰り返される局面で、互いに関係してきたといえる。街頭での政治と議会政治の循環は確かに不安定である。
市民社会と政党間の共同企画は、1986年に発案された直選制の改憲運動が一つの模範である。1980年軍事クーデターで執権した軍部勢力が大部分の政党を解散させ、自らの民主正義党と上辺ばかり野党の民韓党で辻褄を合わせていた頃、普通の与野党の政党体制は運営できなかった。1985年2月の総選挙を契機にして金大中(キム・デジュン)と金泳三(キム・ヨンサム)が率いる新民党が野党として再構築され、彼らの勢力は直選制改憲を主唱した。直選制改憲は、文字通り、市民的権利として大統領を選出しようというもので、当時すべての市民の政治動力を引き出すプログラムといえた。実際、直選制改憲で政治化されたイシューは街頭闘争によって実現した。全斗煥(チョン・ドファン)政権は学生の朴鍾哲(パク・ジョンチョル)を拷問で殺害し、4・13護憲を強要しようとしたが、市民社会と野党は民主憲法争取国民運動本部を結成し、これに対抗してついに勝利をおさめた。大統領直選制という手続き的民主主義の基本形式が市民抗争によって樹立されたという点で、韓国は1987年6月になってようやく本来的な意味での選挙と政党制度が始まったといえるだろう。

しかし、この時期の政党構造は政治学者が理想的に描くタイプ、例えば「社会のバランスの上に立つ様々な集団の利益と情熱を複数の政党が競争的に動員し、自らの支持基盤を拡大しようとする党派間競争の効果」 11が作動する、そうした政党構造には程遠かった。したがって、資本主義の経済構造から疎外された弱者の要求が活性化された政党政治を通じて、国家の政策決定に反映されるのは難しかった。相変わらず政党は政治を職業とするエリートの寡頭体制に留まっていた。こうした政党が官僚化するのは必然だった。これに韓[朝鮮]半島の分断体制が作用して守旧派優位の保守構図が政党構造にも内在化され、与野党の対等な両党体制は定着できなかった。政党構造のこうした弱さは、1991年に野党党首の金泳三が率いる統一民主党が慮泰愚(ノ・テウ)の民主正義党と合党して民主自由党を創党したのによく表れる。当時、民主自由党の創党はエリートによる私党的な性格の政党が大衆の選択に逆らって政治家個人の利益を求める形態をよく示しているといえよう。結局、1987年以後民主化の拡大により成長した市民社会運動が政治と遭遇した現場は、2000年総選挙時の落薦・落選運動だった。不正と腐敗で対象化された存在、それは市民社会が政党を眺める明確な観点だった。

逆説的にも、政党と政治に対する市民社会の叱咤は一種の権力移動を呼び起こしたが、それは2004年総選挙を契機にして明確になった。盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領に対する弾劾に対抗して、市民の投票権運動が野火のように起きた2004年は、当時の与党であるヨルリン・ウリ党(以下、ウリ党)が過半数の議席を獲得し、労働組合が中心になった市民社会主軸の民主労働党がついに国会内に進出した特別な年として記録された。民主政権とともに新たに完成された国会の民主政党優位の構図は、社会的テーマが主に国会を通じて論議されうる基盤となった。市民社会人士の国会進出ラッシュも、この時に主にみられた。一種の勢力移動が同時に達成されたのである。

しかし、こうした流れが政党構造の弱さを克服したわけではなかった。私党的な性格、官僚政党の問題点は相変わらずだった。それは2007年8月、ウリ党が所属議員の連鎖的な脱党形式で大統合民主新党に吸収され、歴史の中に消えていく離合集散によって確認される。2004年当時、国会に進出した市民社会人士も独裁に対抗した勇気と献身、道徳性にもかかわらず政党構造の後進性を克服できなかった。民主労働党は党職者が夜昼問わずに努力して作成した進歩的な政策アジェンダが空中分解し、党内覇権主義の形態と対北追従の理念偏向を制御できずに、市民と縁遠くなって座礁するに至った。

ここで市民社会運動は依然として政治不在の渦中で、政治を奮い起こす役割をしたと評価しうる。代表的な例が2008年ローソクデモである。当時ローソクデモは、米国産牛肉の輸入交渉の過程で政府が国民を騙したことに対する抗議から始められたが、同年総選挙で政府与党が過半数を得た後、政府与党に無力な政治無能に対する反発であったといえる。2010年地方選挙と2012年総選挙はそれでも少し良くなった面があったが、市民社会と政党の連合政治が部分的にも作用したからである。しかし、リーダーシップ不在による大統領選挙の敗北後に野党性は薄まり、結局、2014年セウォル号の涙は政治の失踪と対比されて市民の記憶内に刻まれた。金漢吉(キム・ハンギル)・安哲秀共同代表体制の2014年7月30日補欠選挙の敗北、朴暎宣へと続いた新政治民主連合の非常委員会体制の混乱、2015年文在寅(ムン・ジェイン)党代表体制まで、すべてがこの責任の当事者である。それから2年、驚くべきは市民が再び政治をつくり出すという奇跡を示した。2016年4月の政治回復は、市民が自発的に戦略的な選択をした結果という点で、むしろ政党と市民社会の覚醒を促したといえよう。

私たちは今後も制度圏政治の失踪と街頭での政治を、多かれ少なかれ、経ることになるだろう。選挙と政党制度は、今後も国家共同体運営の制度的形式において核心をしめるもので、政党を革新すべく進歩的対案を探さねばならない。市民が政党に対する介入能力を強化しうる方法、そしてそれが政党民主主義にまで連結される接点を探し出さねばならない。ここに市民政治の道がある。

 

言説、地域、そして連合政治

市民社会の政治企画が成功するために必須の要素として言説、地域、連合政治の三つを提案する。
まず言説である。市民社会は利害関係者の集団としての実行力よりも、言説能力の面でより優れる。もちろん利害関係者の集団は政治力を発揮する。代表的なのは韓国労総などの労組がそうである。しかし、市民社会運動は参与連帯、環境運動連合、女性団体連合でさえ、利害関係者というよりは特定の価値集団、または専門家集団というイメージが濃く、強みも言説能力により優れている。

しかし、2016年総選挙ではこうした市民社会の言説能力をうまく活かせなかった。今回の総選挙の政党領域では、「政権審判論」と「政治審判論」の間に「両党審判論」が角逐する言説闘争があったと思われる。ただ、この言説は一種の証拠目録が連結されるレベルで駆使され、投票行動の基準になる選挙言説は「自派政党支持」という線に固定化された。これに比べて市民社会の場合は、「総選ネット」の落薦・落選運動に代表される一種の「個別候補審判論」ないし「アウト目録」以外に、元老である白楽晴の選挙言説の完成度が高かった。 12 「再び民主主義フォーラム」が掲げた候補単一化の主張の場合、「単一化をしなければ、野党勢力単一化に対して消極的で、政略的な態度で拒否する党と候補を落選させるように国民に促す」べきことを鮮明にしたという点で言説の効力は弱かった。これは事実上、「国民の党」の辞退運動であり、各政党が展開した自派政党支持と同じ意味をもつからである。市民社会が伝統的に優位な領域である言説能力は、なぜ今回の総選挙では萎縮したのか、まじめに考えて評価すべきであり、言説能力を復元させる必要がある。

第二に、地域である。自治の経験を通じて成長する市民は地域の中で自らを政治勢力として形成していく。これは特定の首長の政治的性向の問題ではなく、必要による選択の結果である。その必要は住宅、教育、医療、保育、福祉、雇用、交通、安全問題などに発現される。すべて市民の生活問題という点で当事者である市民の意思決定への参加が、問題解決の鍵になる領域である。参加のレベルも予算決定権まで進んでいく過程である。ここでは、地方自治体と市民の協力が問題解決の核心哲学であり、方法になっているのだ。問題は、過半数以上の共通した支持を形成する「政治勢力としての地域」になり得るか否かである。もし地域が政党の影響力が及ぶとおりに区分されるならば、地域は政治勢力ではなく、単なる空間にすぎなくなる。少なくとも資本の都市開発と富の蓄積領域をめぐる利害葛藤を除けば、地域は生活領域で共通した政策合意を生み出す点では中央よりも優れている。 13 地域に存在する諸般の政党勢力が協力しうる可能性も増大する。「政治勢力としての地域」が機能するという話だ。こうした問題意識は地域政党(local party)を志向するという意味ではない。相対的に平等で、普通の影響力の下で多様な社会勢力、政治勢力が共同の政治目標をつくり出しうるという意味である。

第三に、連合政治である。連合政治は共同の価値をもつ勢力連合を意味する。その基礎は民主主義だといえるが、多様な集団の多様な利害関係が多様な社会勢力、政治勢力として反映される構造だからである。今日、連合政治の課題は選挙時ではない日常時に作動されるモデルをつくり出すことである。選挙政局ではすでに多数と少数が定められた構図で、まるで株主総会のように議員数や支持率などによって差別される可能性が大きいからである。日常の連合政治はアジェンダを通じて発現されざるを得ず、それは日常の暮らしと政治を連結する地点で形成される。そういう点で、日常の連合政治アジェンダは地域懸案の生活力が全国的な政治懸案として成長し、さらに韓半島全体の脈絡まで探知する必要がある。特に韓半島の問題は、私たちにすぐにも迫りくる対北イシューと連結し、マウル単位から国家単位に至るまで勢力連帯の基盤になっている。

連合政治では共同善に密接な市民社会のイニシアティブが貫徹されるべきだと主張する理由は、政党の「セルフ(自己)」革新が期待できないからである。市民社会のイニシアティブは内容的には民主・民生・平和から形成され、これが政党の民主的土台を強化してくれる。政党の革新において韓半島の平和がともに強調される理由は、韓国社会における民主主義に対する挑戦が、主に分断体制を媒介にして増大されてきたからである。 14

今日、市民社会団体は成長している市民の中に入っていくべきだ。市民的感受性の中で言説を練磨せねばならない。市民が暮らす地域で運動のエネルギーを充電すべきである。地域と全国、韓半島が連結されるアジェンダを通じ連合の実験を続けねばならない。「ともに幸せな金海」「自然と共存する江原」などが「平等な大韓民国」「平和な韓半島」と縦横に編みこむ構図である。それぞれの構造に社会運動の推進者が自らを組織して関係をネットワーク化するだろう。

地域住民の生活に根ざすが韓半島問題まで思惟する市民政治、政党に進入する通路より政党とともに歩む市民政治を、今こそ本格的に始める時が来たのだ。

翻訳: 青柳純一

Notes:

  1. 市民を失望させた代表的な選挙は2014年7月30日補欠選挙である。その年4月16日にセウォル号惨事が起き、朴槿恵大統領をはじめ政府の責任が厳しく追及されて与党惨敗が予想されたが、結果は反対に11対4で与党が勝利した。この選挙後、政府与党はセウォル号事件に対して反省のない非協力とあきれた態度を露骨化させた。
  2. 李南周は、進歩改革勢力が政治的民主化と経済民主化を区分することで、李明博政権の民主主義逆走を見過ごしたことを指摘し、危機克服のために「進歩的な政治勢力、自由主義的な改革勢力、市民運動」間の政治連合を提案した。李南周「政治連合、進歩改革勢力の相生の道」『創作と批評』2010年春号、を参照。
  3. 2009年市民社会の政治・社会的企画の問題意識については、河承昌「再補選後の進歩陣営の戦略的課題」『創作と批評』2009年夏号、を参照。
  4. 当時、市民社会と政党間の連合政治の動力については、白承憲「連合政治論議、今こそ成果を示す時である」『創批週刊論評』2010年2月24日(http://weekly.changbi.com/?p=873&cat=5)、を参照。
  5. 「私が夢見る国」は他の「市民政治」グループとは異なり、市民社会内に位置した独立的で持続可能な市民政治の領域を追求した。シンクタンクと進歩メディア、そしてメッセージ・センターが連携した市民政治組織がそれであるが、彼らのネットワークがオンラインでプラット・フォームを構成するように設計した。しかし、「私が夢見る国」は受権的革新政党の建設を通じた政権交代と市民政治の基盤構築という課題を同時に掲げ、力のバランスが政党側に傾いていく限界を経験する。
  6. 円卓会議が発したメッセージで注目すべきものとして、2012年8月23日に発表した安哲秀候補の出馬関連声明と、11月1日に行われた文在寅─安哲秀候補間の政治革新の対話を促す論評がある。英知を示したという点で、選挙言説の意味をあらわすメッセージ活動のよき事例といえよう。
  7. 2012年大統領選挙の時期に生活現場の運動がなかったわけではない。代表的な例が「経済民主化と財閥改革のための国民運動本部」の活動、済州島のカンジョンから始まった万民共同会、双龍や龍山など社会的被害者の座り込みテント村運動がある。その他に、安哲秀と文在寅間の連帯を社会勢力連帯の意味に拡げようとする新たな努力の一環として、「反特権連合」を実現させようとする活動も進められた。だが、すべて両候補陣営と連係されず、政治的企画として実現できなかった。
  8. 当時の慶尚南道の協力的施政については、任根宰「地方連合政府の実験とその評価」『創作と批評』2010年冬号、を参照。政党と市民社会の共生、行政とのパートナーシップという話題を供して新たなモデルを実験していたが、道知事の突然の辞任により水泡に帰した。
  9. チョ・デヨプ「公共性の社会的構成と公共性フレームの歴史的類型」『アジア研究』第56巻2号(2013年)、を参照。
  10. 柳昌馥「マウル共同体政策と地域社会の市民生態系」『創作と批評』2015年冬号、を参照。
  11. 朴相勲『政治の発見』、ポリテリア、2012年、124頁。
  12. 白楽晴が自らのフェイス・ブックに上げたこの文章は、マスコミに報道されて「共有」される方式でSNSに広がった。この文章には、「ともに民主党」と「国民の党」の選択に苦心する光州・全南の有権者に必要な論理、好きな政党への比例区での選択と当選可能な野党に投票する地域区という戦略的論理が込められた。白楽晴「楽な気持で投票しましょう」2016年4月6日(http://www.facebook.com/Paik.Nakchung/posts/1066711833388500)。
  13. もちろん、市民自治は特定の議題、プロジェクトで露呈する異なる勢力の連結と連帯だけで成立するわけではない。地域でも土建の論理は最大の政策争点である。土建は与野を分かたず、江原道で加里旺山の開発をめぐって崔文洵道政と環境団体が激しく葛藤した事例がある。市民の政治化は少なくとも政策レベルの対立を管理すべき民主主義の運営能力までも含める。
  14. 2012年統合進歩党は連合政治への参加勢力だったが、解体されていく過程もそうだが、「李石基事件」を契機に政党を解散させようとし、憲法裁判所まで加わって大法院の決定に反する行為をするとか、テロ支援法を通じて国情院の市民監視が強化される現象などが、その事例といえよう。

東アジア人文雑誌の未来を拓こう

2016年 春号(通卷171号)

50周年特別企画:創批に望む
東アジア人文雑誌の未来を拓こう–『現代思想』編集者押川淳インタビュー

金杭
延世大学校国学研究院HK教授、本誌編集委員。著書に『語る口と食べる口』『帝国日本の思想』、訳書に『近代超克論』『例外状態』『政治神学』などがある。

 

『現代思想』は1973年に創刊された日本の人文雑誌である。1960年代に登場したニューレフトが学生運動のみならず思想界にも多大な影響を与えたことは周知の事実であろうが、1970年代は学生運動が退行期を迎える時期であると同時に、それまで水面下にあったニューレフトの思想的影響が浮上してくる時期でもあった。『現代思想』はそうした情況において生まれた雑誌である。1993年から2010年まで編集長を務めていた池上善彦が語ったように、当初、この雑誌は同時代のヨーロッパの思想を紹介することを主たる任務のひとつとしていた。この雑誌をつうじて、フーコー、デリダ、ドゥルーズなど、1960-70年代を風靡した思想家の著述がリアルタイムで翻訳・紹介され、大学アカデミズムでは扱われないアクチュアルな思想・思考がこの雑誌を中心に展開された。もちろん単に紹介しただけではない。『現代思想』はニューレフトの実践的問題意識のなかからヨーロッパの同時代の理論に向き合おうとし、それゆえ単なる翻訳というよりは日本の書き手による論考が圧倒的に多くの誌面を占めた。そうして『現代思想』は連合赤軍事件によって廃墟と化したニューレフトの政治空間を、言説の場から再建しようとしたのである。

全盛期の1970-80年代に比べれば販売部数も影響力も小さくなったことは冷徹に認めるとしても、『現代思想』が今なお日本の人文雑誌においてひとつの主軸をなしていることは否定できない事実である。というのも、以前と同様、人文社会分野で批判的知識と奮闘する多くの研究者・批評家が寄稿者として参加しており、著名な執筆者はもちろんのこと、数多くの論客がこの雑誌をつうじて「登壇」するからである。

今回のインタビューに応じてくれた押川淳(以下、押川)は、この雑誌の三世代編集陣のうちの一人である。自らもまた著名な批評家である三浦雅史と、「第三世界」全域を駆け回って知の連帯を実践する運動家である池上善彦が主導していた『現代思想』は、現在、この雑誌と同世代である1970年代生まれの編集者が中心となって制作されている。彼ら・彼女らはヨーロッパの現代思想だけでなく日本国内の現在的なイシューや、東アジアの状況にいたるまで、扱う領域を広げて来た。『現代思想』の現在を担っている若手編集者の押川は『創作と批評』が中心となって2006年に始めた「東アジア批判的雑誌会議」シンポジウムに幾度か参加しており、インターネットで配信されている『創批』日本語版(http://jp.changbi.com)の愛読者である。そんな彼に、東アジア人文雑誌の未来という大きな枠組みの中で『創批』の印象とその展望を聞いてみた。彼は日本の現在の情勢を概観しつつ、質問に答えてくれた。

昨年夏、日本の国会議事堂周辺を10万人もの市民が取り囲んだシーンを今も鮮明に記憶している人は多いだろう。いわゆる「平和安保法制」の国会採択が差し迫った状況で、市民たちは国会議事堂周辺を「占拠」することで反対の意思を表明した。結局、法案は紆余曲折の末に、韓国風にいえば「ナルチギ」採決〔「ひったくり」の意。転じて、議論なしの強引な与党単独採決〕されたが、その過程で立ち現れた日本の市民の集合行動は、強い印象を残した。占拠運動をリードした集団のなかには、90年代以降に大江健三郎などが中心となって結成された「九条の会」のネットワークもあったが、最も注目されたのはやはり「SEALDs(Students Emergency Action for Liberal Democracy-s)だった。彼ら・彼女らは2015年6月以降、毎週金曜日に国会議事堂前で開かれた抗議集会を主導し、中心メンバーらは新しいオピニオンリーダーとしてメディアに躍り出た。「九条の会」が60年代学生運動を担っていた壮年層インテリ集団だとすれば、SEALDsはまるで彼ら・彼女らの20代を再演するかのようであり、メディアの注目を浴びたのである。

しかしSEALDsは60年代ニューレフトの闘士とは、その思想においても行動においても全く異なっている。彼ら・彼女らはおしゃれな服装に身を包み、ヒップホップのライブを彷彿とさせるようなグルーヴ感のあるスローガンでデモを繰り広げた。また、SNSを使って路上の状況をリアルタイムで伝えることで、オン・オフラインの占拠を展開した。スローガンは簡明で、方法は洗練されていた。それゆえかつてのニューレフトのように、理論先行型の過激青年ではなく、ファッショニスタに近かった。過激青年が文章と言葉で合成された肉体を権力に投げつけたとすれば、彼ら・彼女らはラップとイメージで製作されたからかいによって権力をおちょくったというわけだ。

押川はこの新しい流れを見ながら、人文雑誌の現在と未来を予想してくれた。まず彼は日本の人文雑誌の歴史を次のように概観した。

60年安保闘争の時の知識人の発言を見ると、大多数が『世界』(1946年に創刊され戦後民主主義をけん引した雑誌)をはじめとする「論壇誌」で発表されたものであることがわかる。しかしこうした雑誌メディアをつうじた状況分析や発言は、1970年代に既に影響力を失った。市民という単一の読者層を対象にした論壇誌のアリーナは、さまざまな特性をもった雑誌の登場を経て枝分かれしていった。読者の関心も、どういう知識人が発言したのかから、どういう雑誌でどのような編集のもとで議論がなされたのかへと移っていった。知識人個人ではなく、個々の雑誌の固有の観点が重要になってきて、他とは違う雑誌、違う筆者を開拓することがカギになった。すなわち、誰が発言するのかではなく、「どのように伝えるのか」という編集の力が前面化されたのだ。

先述した『現代思想』の創刊は、こうした状況の産物である。しかし2000年代以降、状況は変わった。1996年を頂点にして出版市場全体の規模が全盛期の6割ほどに縮小し、なかでも雑誌の落ち込みが激しくなったのである。人文雑誌はとりわけ状況が悪く、有力誌のうちいくつかが続々と廃刊に追い込まれている。これには様々な要因があるだろうが、押川はSEALDsという新しいかたちの社会運動の登場と関連付けて状況を分析する。

70年代以降、人文雑誌の機能のうちのひとつが運動のメディアになることだった。というのも、社会運動グループの大多数は、人や予算や技術の側面で自前の発信手段を持つことが難しかったからである。いくつかの人文雑誌は、そうしたグループと手を組んでメディアとしての役割を担った。しかしSEALDsのように、自らメディアとなる運動体の登場は、運動と雑誌の役割を変化させた。両者の間に新たな生産的関係が作られるのか、それとも互いを無視しながら併存する非生産的関係に転落するのかは未知数だ。ともあれ読者が何を求めているのかを見極めつつ、今後の関係を考えていかねばならないだろう。

この言葉には、人文雑誌という一線で孤軍奮闘している彼の悩みがよく表れている。押川は日本のこのような状況を念頭に置いて『創批』への思いを語ってくれた。押川は日本語版サイトで『創批』を読んでいる。1970年代に和田春樹教授を中心とした社会運動グループが『創批』の「海賊版」を読んで翻訳・出版していたことを思い起こしてみれば、どれほど世界が変わったのか実感できる。世代を飛び越えて全く異なる世界から全く異なる条件のもとで『創批』と接したが、押川と和田教授グループの『創批』に対する印象には共通点がある。和田教授のグループが『創批』を読むさいに、同時代の韓国の状況を世界情勢的視点から把握する知的眼差しに注目していたのと同様に、押川も『創批』誌面で最も印象深いのは、現情勢を緊張感をもって分析する巻頭言と、グローカル(glocal, global+local)レベルの懸案を扱った「論壇と現場」だと語ってくれた。彼は次のように、「論壇と現場」の印象を述べる。

それは新しい思想や社会実践の導入・紹介でも、変化する状況の単なる分析でもないようだ。個別の現場の特異性や個別性、歴史性に注目しながら、そこから生まれ出てくる思想をどうにかして共有し、新しいコンテクストへと翻訳しようとする意図が見えるからである。また、そうやって抽出された思想の可能性を個別の現場で再び検証する試みでもあるのだろう。このように大切で骨の折れる作業を、国内を越えて東アジア、さらにはアフリカまで含む視野で展開していることは、この雑誌が韓国国内にとどまらず、アジアの人々にとっても重要な思想的資源となるだろうことを物語っている。

このように、押川にとって『創批』は、韓国に関する情報を得るための雑誌というよりは、東アジアからアフリカにいたる個別の現場の生きた思考を、朝鮮半島という観点から解釈し問い直す雑誌として認識されている。1970年代に『創批』海賊版を読んでいたグループも同様だった。彼ら・彼女らは韓国に関する情報を得るために海賊版を耽読していたのではない。韓国と日本を含む東アジアの冷戦構造を打破するために「方法としての朝鮮半島」という意識をもって海賊版を読んでいたのである。押川も同じく、『創批』を韓国や日本にとどまらない、東アジアとグローバルな次元の批判的思考のための媒介としている。彼は自らもまた参加していた2015年「東アジア批判的雑誌会議」に関する論考を引用しながら、『創批』をはじめとする人文雑誌の未来を次のように展望した。

『創批』2015年秋号に掲載された「東アジア批判的雑誌会議」報告文(拙稿「立場から現場へ」)には、白永瑞氏の「核心現場」という概念を、「『立場』から『現場』へ」というパラダイム転換として捉える示唆的議論があった。場を占有するのではなく、場を開きなおすこと、これは破局的状況に置かれている日本の人文雑誌に重要な示唆を与えてくれる。人文雑誌は各自がつくりあげてきた固有の場に立ちながらも、その場を開きなおすことができるのだろうか? そのためには雑誌が表明する思想や立場を支えるいくつかの核心概念が、自らの場を越えて共感されうるのかを考えねばならない。その「現場」を構築する具体的な方法を提示することは自分の能力を越えている。しかし、そうした試みこそが今・ここで断片的にでも始められねばならない。「現場」をアジア/世界の次元で再構築していかなければ、人文雑誌に未来はないだろう。

押川は『創批』の未来を、どれだけ自らの「場」を世界のなかへと開いていくことによって「開くことができるのか」にかかっていると語る。多少抽象的なこの言葉を自分なりに解釈すると、『創批』の未来は朝鮮半島という場をどれくらい東アジアやグローバルな次元へと開いていくことができるのかにかかっているというメッセージであると思われる。もちろん、これは韓国のそとで読者を得ろという「経営コンサルティング」ではない。問題は、朝鮮半島の文学や社会状況が韓国という国民国家の枠によって断ち切られてはならないという点である。『創批』は韓国語の媒体である。しかし向き合っている世界は韓国にとどまらない。かといって東アジアや世界という固定された空間への拡張のことでもない。朝鮮半島や東アジアや世界は、すでにそこにあるものではなく、『創批』が開いていくべき「現場」だからである。その意味で『創批』に対する押川の注文は、50周年を迎える『創批』にとって、大切な提言となるだろう。

翻訳:金友子(立命館大学国際関係学部准教授)