「すでに来ている未来」の小説的主体たち

2012年 冬号(通卷158号)

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黃靜雅(ファン・ジョンア)

文学評論家、翰林大学校翰林科學院HK教授。評論に「災難の叙事、終末の想像」、「異邦人、法、普遍主義に関する問い」などがある。jhwang612@hanmail.net

1. すでに来ているある未来?

この間、ある大統領選挙の候補が引用して有名となった「未来はすでに来ている。ただ広く広がっていないだけ」という文句がある。去る10、20年間われわれの想像力を制約してきた「代案はない」(TINA)という頑強な宣言に対抗するものとして、これほど適切な表現もなかろう。代案がないどころか、それはわれわれが生きていく今日に種として、あるいは実として育ちつつあるから、よく見分けて大事に育てていけばよいという意味として解釈しても差し支えなさそうなこの主張は、そういう点で何より希望的な便りである。だが、どんな文章であれ、だいたい一つ以上の解釈に開かれているに決まっている。この文章もまた、少し角度を変えるならば、緊急で厳しい警告として読まれ得る。振り返ると、容易く気付くほど広く広がってはいなかったものの、すでに来ていたもの、それで結局未来を掌握したものが、いつもよいものばかりではなかったからである。否、実は恐ろしいものが少なくなかったといったほうが実感に近い。例えば、リストラや非正規雇用、強制撤去のような事態を思い浮かべてみよう。これらのことは、一時的であったり例外的であったり、せいぜい枝葉的な事件なので、私、あるいは私たちの未来となるとはなかなか思えなかった。全体的に見て、世の中は前へ進んでおり、ある人は少し先に、また他の人は少し後になるかも知れないが、結局皆によりよい未来があるという信念に相変わらずも捕らわれていたせいも大きかっただろう。

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