[文学評論]動的記憶の文学―黄晳暎文学が立っている

2012年 冬号(通卷158号)

佐藤泉

『客人』の衝撃について書きたいと思う。沈鬱な夢の記述にはじまり賑わしい巫祭へといたるこの作品は、芸術創造がそのままで鎮魂の祭りであるような文学のあり方を、驚くべき仕方で私たちに教えた。そして東アジア冷戦の信じがたい暴力とその暴風のさなかに置かれた人々の「記憶」の困難を教え、さらに、「想起」のリズムというものを教えた。

記憶、特に戦争の記憶について、私たちの社会ではよく記憶の風化、という言い方をする。岩に刻みつけられた文字が、長い年月、風雨にさらされ摩滅していくように、かつては鮮やかだった記憶も、時とともに薄れていくということだ。が、このように自然のイメージを流用する記憶の表象は、事実に照らして誤っているし、理論的にも転倒している。記憶と忘却の過程は、自然過程ではなく、現在と無関係に進むようなものではない。想起とは、倉庫のなかを探すように過去の事実を見つけることではないのだと、黄晳暎の創作活動を通して、私たちは理解する。__想起とは、過去の事実の単なる再生産ではない。かつて見えていなかったものが新たな意味をおびて見えるようになること、出来事の潜在的な意味を顕在化すること、なぜかつてはそれが見えなかったかを知ること、つまり過去の想起とは過去に関わるより以上に現在に関わる行為なのである。現在を危機のときとして感知した人々が、その切迫した危機感のなかで過去を振り返り、新たな文脈において記憶を記憶していく。この東アジアの作品は、記憶がこうしたきわめて動的なプロセスであることを、文学的実践それ自体において示してきた。更新された枠組みのなかで自分たちを新しく表象し直し、それによって自分たち自身を繰り返し生み出していく。過去の歴史を想記し再記憶する運動は、従属なき主体化へと向かう実践であり、それゆえそれ自体の歴史を持つ。そして、それは黄晳暎において文学史と重なりあうことになる。
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